なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

教会の伝道について

  教会の伝道について、ある意味で対照的な考え方の現われを感じる出来事を二つ経験しました。ひとつは、以前私が神学校を出て最初に働いた教会の牧師の連れ合いのお別れ会での出来事です。故人のお別れ会で、牧師たちの席に同席していたのですが、私の数年先輩に当たる某牧師がちょうど私たちの席に挨拶に来ていました故人の次男に対して話していたことです。私は彼が中学生から高校生になる時期からずっと会っていませんでしたので、お互いの近況報告をしていました。彼は逗子の近くの武山に住んでいますので、横浜に来ることがあったら、寄ってね、中華街でも案内するからと、話していました。
 
その私たちの話の中に某牧師は割り込んで来て、彼に教会に行っているの? と聞きました。彼は行ってません、と答えました。すると、某牧師は信徒として教会を支えることは大切なことなのだから、教会に行かなければだめだよ、と彼に説教するように勧めていました。同じ牧師でありながら、私はそういう勧め方はできませんので、よくやるなあーと思いながら、だまって聞いていました。この某牧師の中ではある種教会の正統性に対する頑固な程の確信があるのでしょう。教会はよいところで、間違いがない。来ない方がおかしい。そういう考え方だと思います。
 
もうひとつは、これも大分前になりますが、神奈川教区の常置委員会での補教師試験受験志願者の面接でのことです。教団の教勢の減退についてどう思うかという一人の常置委員の質問に対して、7人の面接者の中の二人が教会の側が問題だという趣旨の発言をしました。教会が現在の青年のことをどれだけ理解しようとしているのか。教会の方が変わっていかなければ、青年が教会に来るのは難しいのではないか。礼拝も現在のままでよいか考えなければならない。ひとりの方は、自分は社会で働いていたときに日曜日の礼拝に何としてでも出席したが、仕事に追われている社会人が日曜日に礼拝に出席することがどんなに大変なことかを、教会はどれだけ理解しているのか等々。なかなかはきりと意見を述べていました。質問した常置委員がどれだけその二人の発言を受け止め得たかは分かりません。
 
私はこの二つの出来事を通して、70年代に田川建三さんがキリスト教批判をしたときに、「観念と現実の逆転」という言い方をしていたことを思い起こしました。キリスト教信仰の中には観念が現実に、現実が観念にという逆転があるのではないかというのです。上記の某牧師や教区の一人の常置委員のようなキリスト教信仰の捉え方に触れますと、まさしく観念と現実の逆転に囚われているように思えてなりません。
 
けれども、イエスの福音には生身の人間の問題に肉薄する命が豊かにあるのではないかと思います。そのイエスの命は、教会の枠組みを超えて、必要な人に与えられるのではないかと思います。牧師として教会で働きながら、私にはそのように思えてなりません。