なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ある障がい者の思い出

 私の所属する教会は日本基督教団神奈川教区には社会福祉小委員会があり、毎年夏「障がい者と教会の集い」が都筑区にあります、障がい者研修保養センターあゆみ荘で行われています。私は何か特別な用事が入らなければ、大体毎回参加しています。
 
名古屋の教会で働いていた時にも、中部教区で同じような集会が毎年一回開かれていました。その集会にも私よりも少し年上のTさんという脳性麻痺の方の介助者としてよく参加しました。Tさんは私が今の教会に転任する数年前に三重県菰野にあります聖公会の関係の身体障害者の施設に入所しましたが、私はこちらに来てからも彼の保証人になっていました関係で年に数回訪問していました。1999年1月頃だったと思いますが、彼は召天し、私と妻でかけつけ、施設長の聖公会司祭に施設のチャペルで葬儀をしていただき、彼の遺骨を火葬場から持ち帰り、名古屋の教会の墓地に埋葬するまで今の教会の牧師館で預かっていたことがあります。
 
私が名古屋の教会で彼と出会ったときは、教会から私の足で10分ほどの距離にありました名古屋ライトハウスという施設のホームで彼は生活し、その施設の印刷部の仕事をしていました。毎日曜日礼拝にもそこから歩いて来ていました。何年か後に名古屋の今池というところにありましたユニーといスーパーで出会った同じ脳性麻痺の女性と共同生活を始めました。施設の近くのアパートを借りて、施設のホームを出ました。
 
それからが大変でした。彼女が体調を崩し、彼の要望で掃除と食事を教会の仲間でサポートしました。食事は夕食でしたが、何回か妻に作ってもらい、私が自転車で届けたことがありました。昼間ヘルパーとして行った教会員の女性は、彼が仕事に行った後休んでいる彼女が仕事をさせないで、ただ話して帰ってくるだけだが、いのかしらと言うのです。それでもいいではないかということだったと思います。
 
気丈な彼女はお人よしで甘えん坊の彼のことを、・・・ちゃんと呼んでいました。彼らが借りていたアパートが木造で古く日陰なので転居の場所を探すことになりました。その頃には彼女も健康が回復していました。彼女は障がい者二人では民間のアパートは貸してくれないと言い、私も部屋探しを頼まれ何件かの不動産屋を調べましたが、彼女の言う通りでした。そのことを報告したときに、彼女はそうでしょと、自分たちが部屋を借りるということがどんなに大変なことか、少しは分かったでしょという素振りでした。その後彼女の執拗な行政への掛け合いにより、3LDKの市営アパートが借りられました。補助を受けて手を入れて部屋はバリアフリーになりました。快適な二人の生活がはじまりました。
 
彼の仕事へは彼女が三輪自転車の荷台に彼を乗せて往復しました。けれども長続きせずに、しばらくすると、彼女は頚椎損傷により全身が動かなくなり、東海市の病院に入院しました。彼は彼女に付き添い、献身的な看護をしましたが、手術の結果も思わしくなく、彼女は全身針で刺されているような痛みを訴え、最後は彼女の希望でアパートに帰り、数日後に亡くなりました。
 
彼はしばらく一人でアパートで生活していましたが、その後隣のアパートに家族と生活していたやはり障がい者の女性と共同生活するようになりました。最初は彼が彼女を世話する感じでしたが、段々彼自身の障がいが進み、彼女を世話をすることができなくなりました。彼女の方はどちらかというとマイペースでしたので、二人の心理的な行き違いが重なったのでしょうか、彼の方が欝状態になり、その後前記の施設に入所するようになったのです。アパートで一人になった彼女も彼の施設に一緒に入りたいというので、お願いしたところ、たまたま入所でき、施設で暮らすようになりました。男性と女性と別々の部屋でしたが、それから数年後に彼は亡くなったのです。
 
障がい者と教会の集いに参加していますと、障がいと言っても様々で、本当にいろいろな重荷を背負って生きている方々の一つ一つの言葉に胸が撃たれます。特に一泊2日のこの集いの間は障がい者と「健常者」は平等だが、普段の社会生活では差別がきついという、この集いに参加されている障がい者の方の言葉を聞くこと多いのですが、その言葉を聞く度に私を含めて「健常者」の無理解に心が痛みます。