なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

イエスと繋がる

ちょうど今から50年前に、私は高校生でしたが、今牧師をしている教会の礼拝にはじめて出席しました。11月の最初の日曜日でした。その頃教会には高校青年会、通称KKSという高校生の会がありました。KKSのリーダーは、当時東京神学大学の学生であったTさんでした。その年のクリスマスにTさんが書いた脚本で劇をすることになっていて、クリスマスに向けて練習が行われていました。その劇の脚本の基になった聖書の箇所が、ヨハネ福音書1511節以下で、特に【友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない】(15:13)というイエスの言葉でした。
 
当時は口語訳聖書でしたので、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」でした。
 
その時の劇のことは殆どわすれてしまいましたが、この言葉は、強く私の心に残りました。その頃の私は、自分自身を含めて人間不信に陥っていたように思います。ですから、「人がその友のために自分命を捨てる」なんてあり得ないという気持ちが強かったと思います。しかし、毎週日曜日教会の礼拝に参加するようになって、イエスは違うかもしれないと思うようになっていきました。私は教会に来てから1ヵ月半くらいで洗礼を受けましたが、その時の自分の信仰告白は、イエスは私を含め私たち人間を裏切らない。そういうイエスと一緒に生きていきたいということでした。つまり、イエスから離れないで、イエスと繋がって一生を過ごしたいといことです。それから50年経ちましたが、今でもその時の、イエスと一緒に生きていきたいという自分の気持ちは間違っていなかったと思っています。
 
人間は誰も孤独です。もちろん親しい友だちや家族の人たちとの絆によって、孤独がいやされます。しかし、人間同士の絆は絶対というわけではありません。破れがないとは言えません。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と言われるほどの愛を、みんなが持って一生を生きることができるわけではありません。イエスは自分を裏切らないという風に思えたとき、自分の眼差しはイエスを裏切っても、イエスの眼差しは一貫して自分のために注がれていて、変わらないという確信を与えられました。
 
そのイエスの眼差しは、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」という、「大きな愛」の眼差しそのものです。このイエスの「大きな愛」の眼差しによる世界の中に迎え入れられて、イエスと繋がって生きることが許されていることの恵みを思います。
 
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(15:5)。
 
ここにはイエスによって形成されている磁場のような世界が言い表されています。それがイエスの「大きな愛」の眼差しによる世界です。人がその友のために自分の命を捨てるほどに、お互いが他者中心に愛し合って生きる世界です。このイエスの世界は、福音書で「神の国」と言われている、神のみ心が生きて貫かれている世界のことではないでしょうか。
 
こんな私でも「友」として受け入れてくれるイエスと繋がって生きる私たちは、神の国の子どもなのです。私の中にある自己中心の古い自分は、自分を喜ばそうとします。しかし、自分の中にある神の子どもとしての新しい自分は、イエスに喜こんでもらおうとします。いつもその葛藤はありますが、私はイエスと繋がって最後まで生きていきたいと思っています。