注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。
この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から
解き放つ神」。 (詩編68:20-21)
③ 讃 美 歌 8(心の底より)
https://www.youtube.com/watch?v=LKls-7mTTsE
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編126編1―6節(讃美歌交読文143頁)
⑥ 聖 書 ヨハネによる福音書13章31-38節(新約195頁)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 197(ああ主のひとみ)
https://www.youtube.com/watch?v=sOdY5sBNUko
⑨ 説 教 「十字架・新しい掟・弱さ」 北村慈郎牧師
祈 祷
今日のヨハネによる福音書13章31-38節は、最後の晩餐における洗足に始まるイエスと弟子達との一連の場面への結論とも読めますし、14章―16章に語られる告別の説教の導入部とも読めるところであります。
13章30節の最後に「時は夜であった」(口語訳)という短い一句が記されていますが、この一句が私たちに非常に強い印象を与えるということは、多くの人々の言っている通りだと思います。この「時は夜であった」ということは、言うまでもなく、ユダが外に出て行ったその時が、たまたま夜であったというようなことではありません。ユダが銀30枚という金に代えて、主イエスを敵の手に売り渡すという恐ろしい行為、光のない真っ暗な行為へと、彼が一歩踏み出したということです。人間の暗黒と世界の暗黒とを象徴する真っ暗な、漆のように黒い闇の中で、ユダが姿を消して行ったということです(井上良雄)。
そのようにしてユダが出て行った、そのあとに残った弟子たちに対して、イエスが語り始められた言葉が31節以下に記されています。
<さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた>(31節、新共同訳)という切り出しは、これから語られるイエスの「告別の説教」への導入の役割を果たしています。今まで食事の席には、十二弟子のひとり、やがてイエスを裏切ることになるユダがいたので、一座には何となく重苦しい空気がただよっていました。しかしそのユダは、<ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった>(新共同訳)と、30節に記されていますように、既に一座から去っていて、今はイエスの十一人の弟子たちだけです。時は迫っています。今こそイエスは、真実を傾けつくして、語るべき最後の言葉を、残る弟子たちのために語り終えなければならない、という思いに促されます。まず初めにイエスは、言葉によってではなく、自身で弟子たちの足を洗うという行為によって、弟子たちに一つの手本を示されました。それはイエスが、この世にいる自分の弟子たちを最後まで愛し抜かれたことのしるしでした。今やそのことを、言葉によって、「告別の説教」という形によって語るべきときとなったのであります。
31-38節には、「今」という言葉がくり返し用いられています(31,33,36,37)。今という時は、イエスの地上の生涯が完結する終りの時で、ギリギリにまで迫って来た時の緊迫感を表しています。<イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった>(31節、新共同訳)。「栄光を受ける」とは、「十字架につけられること」で、「受けた」と過去形が用いられていますが、これはやがて起こることが確実であるという場合の予言として用いられる形です。十字架はもう目前に迫っている。それは、常識的・人間的に考えれば、辱めと敗北のしるしでありますが、しかしこのヨハネ福音書のイエスは、この辱めをただ甘んじて受けるだけでなく、それを栄光と勝利のしるしとして負うべき決意を、ここで言い表しているのです。
まず13章31-35節の段落では、イエスは、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった」と語り出されます。これは驚くべきことです。ユダが裏切りのために夜の闇に姿を消したその瞬間に、イエスがそのような言葉を語り出されるとは、驚くべきことだと言わねばなりません。しかしイエスにとっては、まさにその通りであったのです。ユダの裏切りによって最後の幕が切って落とされる、その瞬間こそ、十字架と復活に極まる栄光を、彼が受け、さらに父なる神も彼によって受けられる、その瞬間でありました(井上良雄)。
言(ロゴス)が肉体となった時に、その栄光をあらわされたのですが(ヨハネ1:14)、しかしその栄光は、そこですでに、人の子が苦しみを受け、十字架を負うことと結びつき、そのことを指し示していたのであり、人の子の栄光は、受難と十字架を通しての栄光であることを証ししようとするところに、ヨハネ福音書記者の一貫した意図があるのであります。
ユダとイエスの生き方の対照が、いよいよ鮮やかになってきます。ユダは、自分の利益を追求するために、イエスを犠牲にして敵に売り、他から奪うことによって自分を富ませる生き方をあらわしています。それは、金と物を中心とする生き方を示しています。この明暗の対照がくっきり描き出されているところに、13章の深みがあります。まさに「時は夜であった」(30節、口語訳)。
私たちは皆、ユダ的人間に近いものを内に持っています。人の子が「栄光」を受けたということは、今やイエスが、ユダ的人間に対して、それとは全く違う生き方を示すことによって、確かに勝利されたということを語っているのであります。
<子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく>(33節、新共同訳)。
イエスは33節で、彼が地上を去られることを告げられた上で、34節では、地上に残される弟子たちのために、<互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい>(34節、新共同訳)との<新しい掟>(同)を与えられます。
ここで「新しい」と訳されている原語はカイノスです。「新しい」というギリシャ語には、ネオスとカイノスという2語があります。「ネオス」とは年代的な新しさを言うのですが、「カイノス」は、年代的ではなく、質的・内実的な新しさを意味しています。すなわち「新しい掟(戒め)」とは、年代的に新しいいうことではなく、イエス・キリストにある新しさ、質的に新しい掟(戒め)を意味します。愛という言葉の新しさではなく、愛の事実、出来事の新しさです。ヨハネの手紙一、3章16節に<イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛をしりました>(新共同訳)と言われています。愛という言葉の意味を、今、初めて知ったというのではなく、自ら弟子たちの足を洗い、自分を捨てて十字架の死を負うイエスの生涯そのものが、愛の何であるかを示している、愛を定義しているのであり、そのような愛の事実、出来事を、ヨハネは今初めて知ったというのです。
ですから、ヨハネ福音書のイエスは、34節で<あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい>と言っているのです。<愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出たもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されています。わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります>(Ⅰヨハネ4:7―10)と、ヨハネの手紙一の著者も記しています。
「愛する」を「大切にする」と、本田哲郎さんは言い換えているのは、ご存じだと思います。ですから、34節の本田訳では、<わたしは、あなたたちに新しい掟を与える。互いに大切にしあいなさい。わたしがあなたたちをたいせつにしたように、あなたたちも互いに大切にしあいなさい>となっています。「互いに愛し合う」は「互いに大切にし合う」ことなのです。私たちが互いに大切にし合って生きていくならば、個人としては他者を傷つけたり、他者の命を奪うことはしないでしょう。むしろ他者が喜んで生きて行けるように力を尽くすに違いありません。互いに大切にし合う者たちの国や民族であるならば、自分たち以外の国や民族に戦争をしかけたり、労働や資源の略奪をすることはしないでしょう。何故なら、例え国や民族が違っても「互いに大切にし合う」からです。
ですから、もし「互いに愛し合いなさい(大切にし合いなさい)」というイエスの新しい掟(戒め)を、私たちすべての人が生きることができたら、どんなに平和な、誰もが生きることを喜ぶことのできる世界になることでしょうか。神がイエスにおいて私たちに与えてくださった最大の贈り物は、この互いに愛し合うことのできる力(命)なのです。「愛は人間的可能性を超えて、キリスト(イエス)の愛によってはげまされ、導かれたときに初めて可能となる神の賜物であることを忘れてはなりません。生まれながらの人間の力でできると思うところに、大きな錯誤があり、偽善があるのではないでしょうか」(森野善右衛門)。
ですから、「新しい掟(戒め)を弟子たちに与えたイエスは、続けて<互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる>(35節、新共同訳)と言われるのです。そして13章の最後の段落である36-38節では、やがて18章で記されることになる、イエスに対するペテロの否認のあの出来事の予告が、イエスご自身によって語られ、この13章が終わることになります。ここでユダの裏切りに続いいて、ペテロの否認の予告がイエスによって語られているということは、ペテロをはじめ弟子には、イエスの「新しい掟(戒め)」を実践する力がないことを示唆しているのではないでしょうか。
大切なことは、イエスが<わたしがあなたがたを愛したように>(34節、新共同訳)と言われていることです。人間の力ではできないことが、キリスト(イエス)の愛の出来事にふれた時に、そこから、できないことができるようにされる。それは、キリスト(イエス)の愛への信仰に始まり、信仰において働く愛、また「愛によって働く信仰」(ガラテヤ5:6)なのであり、そこに愛の真実があるのであります。ですから、森野善右衛門さんは「キリスト教的な愛は、根本的に一つの祈りである」と言って、このように述べているのであります。「祈りと悔改めなしにできると考えるところに、愛の虚偽が生じます。しかし、また、できないというところに立ちどまってしまうなら、それはあきらめであり、祈りの放棄であると言わなければならないでしょう。できない自分の罪を告白しつつ、しかしそこにとどまらないで、できる自分へと変えられること、導かれること、力を与えられることを祈りつつ一歩を踏み出すところに、このイエスの愛の掟(戒め)、新しい掟(戒め)の世界が開かれるのです。……祈りと罪の告白なしに、愛の真実はない。しかし、『できない』というところに立ち止まっていては、それはひらき直りであり、神への可能性、『人にはできないが、神にはできる。神にはなんでもできるからである』(マルコ10:27)への不信仰であります」と。
『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である』(Ⅱコリント5:17)。ここに新しい可能性の世界が開かれ、「愛によって働く信仰」の世界が開かれます。私たちはわたしたちの足を洗い、十字架の極みまでわたしたちを愛し通されたイエスから、返しきれないほどの愛の負債を受けたのです。このことを感謝しつつ、「互いに愛し合う」ことにおいて、イエスの弟子であることの証しを立てる者でありたいと思います。
主が私たち一人ひとりをそのように導いてくださいますように!
- この日の説教は主に森野善右衛門さんから示唆を受けています。
祈ります。
- 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
- 神さま、主イエスを信じる私たちの信仰が、私たち一人一人を「極みまで、徹底的に愛し通」されるイエスの愛を応える、愛を通しては働く信仰となりますようにお導きください。
- 今日は沖縄慰霊の日です。現在日本政府は、アメリカと一体となって、南西諸島の軍事要塞化をはじめ、戦争のための準備を強化しています。それは、かつて沖縄を犠牲にしたように、再び琉球弧を戦場にしかねないものであります。どうか軍事力によらない、対話による外交によって日本の国が世界平和を求める道を歩むようにお導きください。
- 私たちもそのためにそれぞれの場で働くことができますようにお導きください。
- 暴力によって、特に武力によって他者を支配しようとする人間の企てを打ち砕いてください。他者からの暴力によって苦しんでいる人々を、また、奪い合いの中で、生活苦を強いられている人々を、どうか支えてください。
- 他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 讃 美 歌 418(キリストのしもべたちよ)
https://m.youtube.com/watch?v=6eH7jOUWCEg
⑪ 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑰ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。