注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。
この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から
解き放つ神」。 (詩編68:20-21)
③ 讃 美 歌 208(主なる神よ、夜は去りぬ)
https://www.youtube.com/watch?v=o0fepgaZwBs
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編73編21-28節(讃美歌交読文80頁)
⑥ 聖 書 ヨハネによる福音書17章1-5節(新約202頁)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 271(喜びはむねに)
https://www.youtube.com/watch?v=Zw-88brmauc
⑨ 説 教 「神の栄光の現れ」 北村慈郎牧師
祈 祷
ヨハネによる福音書17章は「大祭司の祈り」と言われていますいエスの祈りが記されています。このイエスの祈りは、イエスが神と世界との間に立つ大祭司のように、後に残される弟子たち及び教会のためになされた執り成しの祈りとしての性格を持っているからです。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書によりますと、イエスが弟子たちに教えた祈りとして「主の祈り」は有名ですし、しばしば一人になってイエスは神に祈ったということは記されていますが、このヨハネ福音書の17章のような祈りをイエスが祈ったということは、ヨハネ福音書にだけであって、共観福音書には記されていません。
ですから、このヨハネ福音書の17章のイエスの祈りは、生前のイエスが祈った祈りと言うよりも、ヨハネによる福音書の著者によってまとめられ、編集されたものと思われます。
ヨハネによる福音書では、イエスが弟子たちから去って行かれる前に、イエスによる長い「告別の説教」(13:31~16:33)があり、その「告別の説教」と密接不可分な形でその後にこの「大祭司の祈り」と言われる、イエスの執り成しの祈りが続いているのであります。この17章は大きく以下の三つの部分に分けることができます。1-5節(イエスの栄光のための祈り)、6-19節(後に残される弟子たちのための祈り)、20-26節(全教会のため、教会一致のめための祈り)です。
今日は17章1節から5節までのところから、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。
告別説教を語り終えられたイエスは、目を天に向けて祈り始めます。<イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。・・・>(1節、新共同訳)と。「父よ、時が来ました」。これが祈りの最初の言葉です。「父よ」(パテール)という神への呼びかけの言葉は、主の祈りの「天にまします我らの父よ」という冒頭の呼びかけを想い起させますが、イエスが父なる神との一体性の中で祈っていることを示しています。イエスご自身はアラム語の「アッバ」という言葉で祈られたのでしょう。
「時が来ました」(1節)と言われていますが、ヨハネ福音書ではこれまでイエスはしばしば「わたしの時はまだ来ていません」と語られました(2:4,7:6,7:30,8:20、12:23,13:1)。「わたしの時」とは何でしょうか。13章の1節に<イエスは、この世から父のもとへと移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛された>(新共同訳)と言われていますから、「わたしの時」とは、「この世を去って父のみもとに行くべき時」であり、弟子たちとの決別のときであります。その時が、今や目前に迫って来たと言うのであります。
そして続けて、<あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください>(1節、新共同訳)と、イエスは祈ります。「わたしの時」とは、神の栄光があらわれる時、イエスが栄光化される時です。これが17章のイエスの祈りの第一の祈りでした。栄光化とは、一般的には、神が神であることが明らかになること、神の力と救いとが示されることと考えられます。確かにイエスは、栄光への道を進まれます。しかしその道は、一般の期待と予想に反して、十字架への道でした。十字架がなぜ栄光なのでしょうか。イエスの十字架における苦悶と死の姿ほど、栄光の姿から遠いものはないのではないでしょうか。それは敗北と挫折の姿ではないでしょうか。イスカリオテのユダだけでなく、ペテロを含むすべての弟子たちが、そのようなイエスに躓いたのです。
イエスの十字架に神の栄光のあらわれを見るためには、私たちはより深い目を必要とします。ヨハネによる福音書の11章のラザロの復活の記事の中で、イエスはラザロの姉マルタにこのように語られています。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(11:40、新共同訳)と。これはイエスの言葉であり、また同時にヨハネ福音書の記者の証言でもあります。神の栄光を見るためには、信仰の目が必要だということです。その信仰の目を持ってイエスの十字架を見るならば、イエスの十字架は神の栄光以外の何物でもないというのです。
ヨハネの手紙一、3章16節以下に<イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いを持って誠実に愛し合おう>(16-18節、新共同訳)と言われています。ここに、イエスの十字架死がどうして神の栄光なのかを理解する鍵があるように思います。先程「栄光化とは、一般的には、神が神であることが明らかになること、神の力と救いとが示されることと考えられます」と申し上げました。ヨハネの手紙一の著者は、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」言っていますが、ここには、イエスの十字架死は、イエスを通した神の愛の極みであることが述べられていると思います。そのイエスの十字架死によって私たちすべての人間に対する神の愛が現されていることを信じ、知ることができた私たちは、「言葉や口先だけでなく、行いを持って誠実に愛し合おう」とヨハネの手紙一で言われているように、互いに愛し合う者へと招かれているのだと言うのです。それが神の栄光の現れだと言うのです。
私は創世記の人間創造物語で、神が御自分の似姿にアダムを創造し、アダムのあばら骨からエバを創造して、人間を単独ではなく、他者との交わりにおいて創造されたという物語には深い意味があると思っています。聖書では神の本質は愛であると言われています。その神が御自身の似姿に私たち人間を創造されたのは、御自身の愛を私たち人間が互いに愛し合うことによって示そうとされたからなのです。ヨハネの手紙一ではそのことが明確に語られています。<愛することのない者は神を知らない。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました>(4:8,9、新共同訳)と。イエスによって私たちが生きるとは、イエスが私たち一人一人を十字架死という極みまで愛して下さったがゆえに、そのイエスに倣って、私たちも互いに愛し合って生きるということです。そのことが神の栄光のあらわれであると言うのです。
2節によりますと、イエスに与えられた栄光はまた、「すべての人を支配する権能」でもあると言われています。イエスはその権能を神から与えられているので、<そのために、子(イエス)はあなた(神)からゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです>(2節)と言われています。そして<永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです>(3節、新共同訳)と続いています。
「永遠の命」は、ヨハネ福音書に繰り返し出て来る重要な言葉ですが、その内容がこの3節で最も明確に示されています。永遠の命とは、まことの神と、その神から遣わされたイエス・キリストを知ることであると言うのです。「知る」ということは、普通頭脳的な知的な働きを意味していると思います。しかし、聖書における「知る」という言葉は、単なる頭脳的、知的働きではなく、人格的な関係における知識を意味します。たとえば、男と女との性的関係を含む深いつながりをも、聖書は「知る」という言葉で表現しています。創世記4章1節に<さて、アダムはエバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男の子を得た」と言った>と記されています。ですから、聖書の「知る」とは、男と女とが心とからだにおいて一つの交わりに入るように、その人を全体として知ることです。単なる知識ではなく、我と汝という人格的な交わりを通して初めて知ることができるような知であり、そのような知が私たちに命を与えるというのです。
頭脳的、知的知識はどんなに沢山得ることができたとしても、その人自身が変るということはありません。しかし、神を知る、イエス・キリストを知るという時には、神を知り、イエス・キリストを知る私たちが、同時に神に、またイエス・キリストに知られている私たちになるのです。<あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ>(ヨハネ15:16)という聖書の言葉は、そのことを示しています。わたしがイエスを知り、イエスを選ぶことによって、むしろわたしがイエスに選ばれ、呼びかけられる対象となり、自分を中心として、自分のために生きて来た人間が、イエスの中に自分の命を見い出し、イエスのため、他者のために生きる人間へと変えられていくのです。
4節では、<わたしは、行うようにあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました>(新共同訳)と言われています。<イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである>(ヨハネ4:34、新共同訳)と言われているとことがここで思い起こされます。イエスの地上の生涯は、父なる神の意志への全き服従とその実現のためでありました。その最後には十字架の死が待ち受けていますが、しかしその最後最大の業である十字架上の死を前にして、イエスは、すでになすべきことはすべてなし終えたことをここで宣言されているのであります。
シュラッターはこのように述べています。「御子(イエス)は完全に服従した。そしてその愛からすべてのことを行なった。御子(イエス)のしなければならない神の御業は、重荷ではなく、賜物として映る。御子(イエス)の服従は、全き喜びおよび御自身の意志の自由とひとつであった」(シュラッター)と。
神から託されたわざはここにおいてその終り(目標)に到達したので、イエスは父なる神に新しい賜物を祈り求めます。<父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を>(5節、新共同訳)と。このイエスの言葉には、ヨハネによる福音書の冒頭の「ロゴス讃歌」にも掲げられていますロゴス・キリストの先在の思想が反映しています(1:1-3,7:58参照)。「世が造られる前」とは、天地創造以前の時で、時間もまた、創造によってこの世と共に始まったのですから、創造以前からの実在とは、すなわち永遠の実在者を意味します。イエスは永遠の存在者であり、その本質において御父と一つであり、その栄光を父と共にする存在であることがここで語られています。イエスの地上の生涯の叙述を終えるに当たってヨハネは、もう一度ここで、永遠の存在者、ロゴス・キリストの先在の栄光に思いを集中して、大祭司イエスの祈りの第一の部分(1-5節)の結びとしているのであります。
このような「イエスの栄光のための祈り」においてイエスが祈っていることは、神の栄光であり、御自分と父なる神とは一体であるということです。そして神の栄光という権能を与えられたイエスが成し遂げようとしている神の御業は、私たち神の似姿に造られた人間に永遠の命を与えて、私たち人間が神を知り、イエス・キリストを知って、神とイエス・キリストと一体となって生きることです。それこそが神の栄光の現れだからです。父なる神、その独り子イエス、そして私たち人間が神の愛によって生きることこそが神の栄光の現れそのものなのです。イエスは公生涯においてその神の栄光を現してくださいました。そして今ご自分の十字架死を前にして、御自身の十字架死においても神の栄光を現すようになるために、御自身に神の栄光を与えて下さいと祈っているのです。
カルヴァンは「ただ神の栄光のために」と言って、自分の与えられた神学者としての仕事を誠実に果たして生きたと言われています。そのカルヴァンは職業を神の召命と考えました。この宗教改革者の職業観は、自分の得た職業を神の召命と考え、一生懸命に働く人を生み出し、初期資本主義の形成に寄与したと言われています。しかし、植民地支配などの資本主義の問題が明らかになるにしたがって、「ただ神の栄光のために」という生き方が、キリスト者の間で推奨されなくなっているのではないかと思われます。私の帰天した連れ合いの父親は、1943年に同志社大学神学部を卒業して牧師になって、中国奉天の組合教会に赴任し、一年程働いて召集されて、兵士として中国北部行かされ、そこでソ連軍の侵入のどさくさで亡くなりました。この彼女の父親は熱血漢で「ただ神の栄光のために」と生きた人です。
「ただ神の栄光のために」の神の栄光は神の愛なのです。イエスの公生涯も十字架死も、父なる神と一体であったイエスの神の愛の現れなのです。ですから「ただ神の栄光のために」とは、父なる神とその独り子イエスを人格的に知って、私たちが互いに愛し合って生きることなのです。それが「ただ神の栄光のために」という生き方なのです。そういう意味で、イエスは「ただ神の栄光のために」生きた方です。そのイエスに倣って生きる私たちも互いに愛し合って生きることによって、「ただ神の栄光のために」生きる者でありたいと願います。
主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!
祈ります。
- 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
- 神さま、主イエスはあなたの栄光の現れを祈り求めて生き、十字架死を遂げられました。あなたはそのイエスを復活させて、そのイエスの命が永遠の命であることを示してくださいました。どうか私たちもイエスに倣って、あなたの栄光の現れを祈り求めつつ、他者と共に互いに認め合って、あなたの平和を生きることができますようにお導きください。
- 中東では戦争が拡大し、ウクライナでもロシアの軍事侵攻の終結がなかなか見えない状態です。そのためにたくさんの人の命が奪われ、生活が破壊されて苦しんでいる人を多く出しています。また能登地方をはじめ世界の各地で自然災害によって命を失い、苦しんでいる人々が多くいます。差別や貧困で苦しむ人々も世界にはたくさんいます。どうかそのような人々をあなたが支えて下さり、また私たちにもそのような苦しみ、悲しむ人々と共に生きる力を与えてください。
- 他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 讃 美 歌 481(救いの主イエスの)
https://www.youtube.com/watch?v=5Uj2HlRFxCM
⑪ 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。