なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(68)「わたしの平和を与える」ヨハネ14:25-31

7月14(日)聖霊降臨節第9主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌    18(「心を高くあげよ!」)

https://www.youtube.com/watch?v=9apglSW3xqU

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編54編1-9節(讃美歌交読文58頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書14章25-31節(新約197頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    355(主をほめよ わが心)

https://www.youtube.com/watch?v=5lIETVCS6a4

⑨ 説  教   「わたしの平和を与える」     北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

現在私たちは肉体を持ったイエスと出会うことはできません。しかし、イエスは今も聖霊において私たちと共におられるのであります。それが、ヨハネ福音書14章のイエスの告別の説教で語られているメイン・テーマです。このことは、私たちの現在の信仰生活にも関わって来る重要な事柄であることを見失ってはなりません。

 

エスの弟子たちは、イエスの苦難と十字架を前にして裏切り、逃げ去ってしまいました。そのことは、弟子たちがイエスの生前には、本当にイエスを主と信じて従うことができなかったことを意味します。そのような一度挫折した弟子たちが、イエスの復活後にイエスを主と信じてイエスの弟子として歩んでいきました。使徒言行録2章では、そのことが起こったのが弟子たちに聖霊が降ったからだと記しているのであります。弟子たちに聖霊が降って何が起こったのかと言えば、一度挫折した弟子たちが改めてイエスを信じ、イエスの福音こそ人間解放の音すれであることを確信して、福音宣教の働きに自分をかけていったのです。

 

森野善右衛門さんは、「この初代の弟子たちを助け、その心を開いた聖霊は、また今日の私たちをも導く力なのであります」と言って、カルヴァンの言葉を引用してこのように語っています。「『神は第一に、人間の口を通して外側から私たちの耳に語り、第二に聖霊によって内側から私たちの心に語りかけたもう』とカルヴァンも言っている通りです。それが、イエスが私たちと共に今も生きて働いておられる、ということであります。このような心持で、聖霊の働きに助けられて、聖書のみことばにとりくむことによって、私たちの教会の、また私たちひとりひとりの信仰の成長がおこるのであります」。

 

先程司会者に読んでいただいたヨハネ福音書14章25節、26節を読むと、そこには弁護者(助け主)すなわち聖霊が、私たちに与えられることによって、何が起こるのかとうことが語られています。

 

25,26節には、このように記されています。<わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる>(新共同訳)。

 

ここでは、イエスが先ず25節で、<わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した>と言われた後で、26節で、<しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる>と語っています。

 

しかし、聖霊が弟子たちに<すべてのことを教える>、あるいは<わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる>とは、どういうことでしょうか。それは、こういうことであろうと思われます。弟子たちは、これまで、イエスと共に歩んで来たこの地上での数年の生活の中で、もちろんイエスからいろいろの言葉を聞いて来ました。しかし、それがどんなに素晴らしい言葉であったとしても、聖霊が彼らに与えられるまでは、所詮は美しい言葉、素晴らしい言葉に過ぎませんでした。福音書の中で、イエスがくり返し嘆いておられるように、弟子たちは目があっても見えぬ者たち、耳があっても聞こえぬ者たち、心の鈍い者たち――そういう者たちに過ぎなかったのです。

 

しかし、彼らに聖霊が与えられることによって、初めて彼らは、それらの言葉が、本当には何であったのか、それが人間にとって、また世界にとって何であったのか、それを語られたイエスが誰であったのかということを、知るようになるのです。それが、26節で、<聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる>と、イエスが語っていることの意味であります。つまり、イエスは地上を立ち去りますが、しかし聖霊において、彼は、私たちと共にいますということが、この部分で言われているのです。

 

ですから、〔聖霊の働きというと、何か一時的・陶酔的な、感情のエクスタシーを経験することであると考えられているのは、必ずしも正しくありません。聖霊の働きはもっと冷静で、心に深く入った、継続的なものです。聖霊は、「内なる博士」(カルヴァン)として、私たちの心をみことばに向かって開き、地上のイエスの言葉とふるまいを想起させる働きであります。この意味で聖霊は助け主(弁護者)であり、私たちと共に今も生きておられるイエスの働きであるといえるのです(森野善右衛門)。

 

27節には、<わたしは、平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和(平安)を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな>(新共同訳)と記されています。

 

エスはここで弟子たちのために残して行かれる平和(平安)について語っておられます。平和(平安)というものが、イエスの弟子たちへの贈り物、形見の品なのです。ここでイエスはそれを「わたしの平和(平安)」と語っているのです。

 

ところで、この「イエスの平和(平安)」とは、どのような平和(平安)でしょうか。イエスはここで、<わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない>と語っています。彼の平和(平安)は世の平和(平安)とは違っていると言われます。しかしそれは、どういうことでしょうか。

 

私たちは、世が与える平和(平安)――世の平和(平安)というものが、一般にどういうものであるかを知っています。私たちは一般に、この「平和(平安)」という言葉を、不安とか心配とか恐れとかいう言葉と反対の言葉として用います。私たちの心が何かの原因で不安に陥った時に、そういう状態が取り除かれて、私たちの心が再び静かな落ち着きを取り戻した時に、私たちは「平和(平安)」ということを言います。つまりそれは、私たちの一つの心の状態、静かな満ち足りた心の状態です。しかし、平和(平安)というものが、そういう私たちの心の状態である場合には、それは、いつでも危うく脆いものだと言わなければなりません。それは、私たちがそれを手にしたと思った次の瞬間には、もう私たちから失われていきます。それは、私たちが一所懸命に努力して守らなければならないものです。

 

エスがここで、そのような世の平和(平安)とは違った平和(平安)ということを言われる場合、今述べたような心の状態としての平和(平安)を彼は決して否定してはおられないと思います。いわば主観的な平和(平安)を、彼は決して排除しておられないと思います。しかし、私たちが知らなければならないのは、イエスが言われる平和(平安)が、そのような心の状態としての平和(平安)に尽きるものではなく、それを中に含みつつもそれとは非常に違ったものだということです(井上良雄)。

 

しかし、この27節では、イエスは、彼の平和(平安)が世の平和(平安)とは違っているということを言っているだけで、それがどのように違っているのかを知るためには、私たちは、聖書の他の個所の助けを借りなければなりません。

 

言うまでもなく、私たちは、新約聖書の中で、平和(平安)という言葉には、度々出会います。そして、新約聖書で平和とか平安とか言われる場合に、確かに私たちの心の状態としての平安についても用いられているけれども、しかし、それはむしろ例外であって、それとは非常に違った用い方が一般的であるということです。そういう一般的な用い方の著しい例を一つだけ挙げてみますと、例えばルカ福音書10章5節、6節に(これは、イエスが弟子たちを派遣しようとして語れた言葉ですが)「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる」と記されています。

 

これを読んで驚くのは、「平和」というものが人の上に「留まる」とか、また、もしそうでなかったなら平和を祈るもののところに「戻ってくる」とか――つまり、「平和」とうものが、一つの品物ででもあるかのように言われているということです。それは、私たちの考える静かな落ち着いた心の状態というようなものではありません。そういう主観的なものではなくて、むしろ客観的なもの、あるいはむしろ、私たち全体を包んでいる何か非常に確かな現実だと、言うことができます。

 

もし「平和」というものが、そういうものであるならば、私たちが平和を得るためにしなければならないことは、私たちの危うく脆い平安を何とか逃がさないために、私たちが一所懸命努力してそれを守るというようなことではないはずです。そうではなくて、平和の方が私たちを守ってくれるのです。ですからパウロは、フィリピの信徒への手紙4章7節で、「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と言っています。つまり、私たちが私たちの心と思いとの平安を守るのではなく、逆に神の平和が私たちの心と思いとを守ってくれるのです。その場合に、私たちがしなければならないことは、ただそのような神の平和の中に留まるということ、その中に生きるということ、それ以外のことではないわけです。

 

もちろん、そのような神の平和の中に留まると言っても、私たちの心は、絶えず波立ち騒ぐにちがいありません。人間が人間である限り、どうしてそういうことがないと、言えるでしょうか。しかし、そのような動揺常のない私たちを、神の平和という堅固な城壁のようなものが、私たちを取り囲み護ってくれるということを、もし私たちが信じるならば、私たちは繰り返しその事実に立ち返ることができます。

 

そしてさらに、(これが一番大切なことだと思いますが)その堅固な城壁としての神の平和、神の平安、それは何かと言いますと、実はイエス・キリスト御自身です。イエス・キリスト御自身が、神の平安であり、神の平和であります。ですから、エフェソの信徒への手紙2章14節で、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と言われているのです。彼はその十字架によって、そのような堅固な平和を私たちのために築いてくださいました。私たちは、そのような十字架への彼の道行が、どのように平和のないものであったかを知っています。彼は、この地上では最も平和とは縁遠い方として、生きまた死にました。彼が歩まれた道の上には、私たちを苦しめ脅かすあらゆるものが横たわっていました。しかし彼が弟子たちに(また私たちに)残して行かれたその平和は、あらゆる不安や恐れを通り抜けて(それをくぐり抜けて)築かれた平和であるゆえに、それこそが揺るぎのない平和として――堅固な城壁のような平和として、私たちを守ってくれるということを、私たちは信じることができるのです。

 

そのようなイエスの平和に護られて、不安とか心配とか恐れに満ちた平和なきこの世にあって、イエスの平和を証しして生きていきたいと思います。

 

主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

 

  • この説教の後半、「イエスの平和」の部分は、ほとんど井上良雄『ヨハネ福音書を読む』によっています。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、イエス聖霊において今も私たちと共に生きていてくださることを覚えて、心から感謝いたします。そのイエスの平和に支えられて、私たちも平和をつくり出す者として、日々を生きていくことができますように、私たち一人一人をお導き下さい。
  • けれども、ウクライナやガザでの戦争をはじめ、世界では分断と暴力によって、人々の命と生活が奪われている現実があり、私たちは不安と恐れを覚えざるを得ません。
  • どうか軍事力や暴力によって他者を支配しようとする人間の企てを打ち砕いてください。イエスの平和が全ての人を支配しますように。
  • 他者からの暴力によって苦しんでいる人々を、また、奪い合いの中で、生活苦を強いられている人々を、どうか支えてください。
  • 他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌    323(喜び祝え、わが心よ)

https://www.youtube.com/watch?v=Nm1WAiIIvNQ

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。