なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信、№684

船越通信、№684  2025年10月5日(日)  

 

28日(日)の礼拝に、先週現在寿地区センターで主事をサポートして働いて下さり、炊き出しや寿地区センターのバザーにもボランティアとして参加して下さっているMさんと、寿の炊き出しにずっとボランティアとして参加して下さっているIさんが、船越教会の礼拝に行きたいと言っていましたが、本当に来られたのにはびっくりしました。それぞれ鎌倉と鶴見にお住まいで、船越教会に来るには相当時間がかかると思いますが・・・。

 

この日は礼拝後教会全体修養会もありましたので、礼拝参加者はお二人を入れて13名でした。礼拝後この日は教会全体修養会があり、昼食が用意されていましたので、教会員からお二人にも昼食会への参加を勧めましたが、お二人は断り、私と暫く寿のことを話してから帰られました。

 

その後昼食を共にし、12時半から14時過ぎまで「船越教会の今後について」の教会全体修養会を行いました。参加者は私を入れて10名でした。

 

この日の教会全体修養会では、先ず昨年12月に開催した船越教会創立70周年記念礼拝後の「船越教会の将来を考える」教会全体修養会で話し合った上で「とりあえずの方向性」としてまとめられているところを私から紹介しました。それは下記の通りです。

 

【以上の点を踏まえて――とりあえずの方向性、・「行けるところまで行く」という案が基本。・2 0 2 6年3月末を目途に、常置委員会に依頼し、教区内に船越教会との合同礼拝が可能な教会があるか調べてもらう。北村慈郎牧師の負担を軽減するため、zoomを活用し鶴巻の自宅から説教の発信をしてもらうことも検討する。リアルで視聴できない人のために、YouTubeの活用も考える。「聖書を学ぶ会も」可能に。   ⇒試験的に、北村先生にzoomを活用して鶴巻の自宅から説教の発信をしてもらう】。

 

この日出席できなかった二人からは「行けるところまで行く」という意見が紹介されました。その点ではこの日参加者はほぼ同意見。

 

ただひとりの方からは船越教会が活動を続ける以上会堂も庭もお掃除をしておきたいが、自分の年齢や体力にも限界があるので、「やれるところまでやる」というのではなく、活動を終える時期を決めて欲しいという主旨の意見もありました。「行けるところまで行く」という場合、この方のご意見を無視できませんので、会堂や庭の掃除のことも考えなければなりません。

 

教会が維持できるかどうかという限界人数の教会が教区の中にはいくつかあるのではないかと思うので、そのような教会が共同して教会活動をして行けば、道が拓かれる可能性があるので、それを教区が主体になって働きかけをしてもらうように、教区に要望する。

 

教会活動を継続していくときに、現状では信徒だけでは無理なところがあり、何らかの形で牧師の協力が必要なので、複数教会に一人乃至は二人の牧師を教区がコーディネートできれば、それが望ましいのではないか。

 

以上「「行けるところまで行く」と教区に働きかけるという二つの意見が、船越教会の教会活動の継続に対する基本的な方向性としてあるということが、この日の教会全体修養会で確認しました。

 

その上で教会活動の活性化という点では、いろいろな意見が出ました。特にZoomやユーチューブなどのSNSの活用の必要性が強調されていたように思います。その点は私には技術がありませんので、役員会が中心になって進めて行って欲しいと思います。

 

以上が簡単ですが先週の日曜日に開催された教会全体修養会の私なりの暫定的なまとめです。教会全体修養会のまとめはNさんにお願いしてありますので、次号の教会だより「船越の丘から」に載せていただければと思います。

 

この日は午後3時過ぎのバスで追浜に出て、鶴巻に帰りました。

 

29日(月)は一日ゆっくり鶴巻で過ごしました。ただ寿地区活動委員会関係の原稿が三つあり、それを書き上げ委員にメールで送り、修正をお願いしました。

 

30日(火)は午前10時から午後3時ごろまで寿地区センターに行きました。この日で主事の実質的な仕事は終わることになっていましたが、まだ引継がなければならないことが残っています。10月末退職ですので、主事には申し訳ありませんが、それまでにはなんとか引継ぎを終えたいと思っています。

 

この日の午後には食支援ネットからか、荷物が大量に送られてきて、寿地区センタ-―に一部おろしてもらい、他は二ヶ所に分けておろしてもらいました。その一つである生活館への分は、沢山の人に手伝ってもらい、人から人へという形で3階まで運びました。

 

私もその一端を担いましたが、荷物が入ったどのくらいの数の段ボール箱が運ばれたのか、100箱は越えていたのではないかと思われますが、比較的短時間で運び終えました。

 

その仕事をしながら、昔はこのように人の力ですべて物を運んでいたことを思い出しました。横浜では戦後船の荷物の出し入れのために日雇い労働者が必要とされて、桜木町近辺が労働者のたまり場になっていました。

 

野毛に職安があり、寄せ場寿がまだできる前です。当時まだ寿地区は米軍に接収されていました。接収が解除されて、1950年代半ばごろだったと思いますが、野毛の職安が寿町に移って、その前後から寿地区にドヤが建つようになり、見る見るうちに寄せ場寿に変貌していきました。

 

高度経済成長の時代には日雇いの仕事は沢山あって、寄せ場はどこも活気にあふれていました。ビルがどんどん建築され、高速道路が整備されていきましたが、その建築には日雇い労働者の働きが不可欠です。ですから、日雇い労働者の働きがなければ、高層マンションに快適に暮らすことも、快適な都市空間で生活することも、高速道路を利用して物資の運搬も旅行もできません。

 

それなのにその快適な社会で暮らしている私たちは、日雇い労働者への感謝と尊敬をどれだけ持っているでしょうか。寿の炊き出しの列に並ぶ方々の中にはかつて日雇い労働者として働いて来た方が多いと思われます。私は炊き出しのボランティアに参加する度に、この方々によってつくられた都市空間に私たちは住んでいるのだということを再確認しています。

 

30(火)夜には支援会の世話人・事務局会議がZoomでありました。9月15日に開催しました第7回支援コンサートの反省と今後の予定(2026年1月31日には沖縄で第8回コンサートを開催)、宣言賛同者の現況、今後の対応などにつて話し合いました。

 

この週も国会前の座り込みはお休みし、1日(水)午後寿地区センターへ行き、3日(金)の寿の炊き出し参加しました。