なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

聖霊降臨節第18主日礼拝「あなたの光」イザヤ書58章6-12節

10月5日(日)聖霊降臨節第18主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃 美 歌     11(感謝に満ちて)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-011.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編119編33-40節(讃美歌交読文133頁)

⑥ 聖  書   イザヤ書58章6-12節(旧約1157頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      575(球根の中には)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-575.htm

 説  教    「あなたの光」   

 

先ほど司会者に読んでいただいたイザヤ書58章6-12節は、第三イザヤの預言の一節です。

 

イザヤ書は、前にもお話ししましたように、本来のイザヤ書は1章から39章までで第一イザヤの預言です。預言者イザヤは紀元前8世紀に古代イスラエルユダ王国の後期に活躍した預言者です。

 

40章から55章までは第二イザヤのものです。ユダヤ人が紀元前587年にバビロニアに捕囚され、半世紀ほど捕囚されていた捕囚期の末期から、捕囚解放そしてエルサレム帰還に至る時代が第二イザヤの活躍した時代です。

 

そして56章から66章が第三イザヤの預言です。第三イザヤの預言は一人のものではなく何人かの複数の預言者の預言がまとめられていると言われています。第三イザヤには一部捕囚期の預言も含まれていると考えられていますが、ほとんどのものはバビロニアからペルシャに覇権が移って、バビロニア捕囚から解放された以後の時代に属すると言われています。

 

紀元前539年にペルシャ王キュロスによるユダヤ人の祖国帰還と神殿再建を許可する勅令がだされ、シェシュバツァルを総督とする第一回帰還民が祖国に向かったのは翌年の538年のことでありました。しかし多くのユダヤ人は、半世紀を越えるバビロニアでの生活を捨てて、荒れ野をよぎって荒廃の祖国に戻ることをいとい、むしろバビロニアペルシャ領内に留まることを選んだと言われます。

 

ディアスポラユダヤ人とは、バレスチナの故国ではなく世界の各地に散在しているユダヤ人のことを言いますが、このバビロニアペルシャ領内に留まることをえらんだことが、ディアスポラのはじまりとされています。

 

イザヤ書58章6節以下の預言は、捕囚から解放されて、祖国に帰ってきたユダヤ人たちがエルサレム神殿の再建とユダヤの国の復興に力を注いでいた時代のものと思われます。この時のユダヤ人にはユダヤ教という教団はありましたが、国家はありませんでした。

 

半世紀近くバビロニアで捕囚の生活を強いられて、そのバビロニアから解放されてエルサレムに帰還したユダヤ人たちは、バビロニアからペルシャに覇権が移ることによって奇跡的にバビロニアから解放されて、故国に戻れたことに、恐らく神の恵みを強く感じていたに違いありません。

 

ですから、当然帰還したユダヤ人たちはエルサレム神殿の再建に取り組み、神を尋ね求める神礼拝を何よりも大切にしなければと考え、その信仰によって生きていこうとしたと思われます。しかし、そのユダヤ人の信仰は、主観的に神を尋ね求めていると思っているだけで、実際は自己流の信仰になっていて、的を外していたようです。

 

58章3節に「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか」と記されていますが、これは、「『断食』や『苦行』をし、主観的には『神』を『尋ね求め』ていると信じていた(帰還したユダヤの)民の発する神への問いであります。

 

なぜ自分たちは神を求めているのに、神の『顧み』にあずかれないのか、と言うのです。

 

それに対する預言者の答えが、「『お前たち』の『断食』は『頭(こうべ)を垂れ、粗(あら)布(ぬの)を敷き、灰をまく』など形式は守るが、『人々』と『争い』をおこし、『主に喜ばれる』内実を伴っていないから」と言うのです。

 

「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。/見よ/お前たちは断食をしながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。/お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天に聞かれることはない。/そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか」(3c―5節)。

 

「ではどのような断食が本当に『主に喜ばれる』のでしょうか」。イザヤ書58章6節以下がその答えになっています。

 

そのところをもう一度読んでみたいと思います。

 

「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。/悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。/更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」(イザヤ58:6,7節)であると言うのです。

 

「これは土地や労務あるいは家族や自分自身を売却して債務奴隷化していく貧しい者と、それから搾取する富める者とが分離して行ったこの時代背景を踏まえて語られているわけです。預言者はあくまでもユダヤ人(同胞)はみな平等だという理念(レビ25章、ネヘ5章)に基づいて、このような隷属関係は『悪による束縛』であり許されるべきではないと主張しているのです(キッペンベルク)。

 

6節がそのような社会的不正義の改革を唱えているならば、7節はもう少し心情倫理的な愛の実践を勧めていると言えるでしょう。

 

確かに最初に出会った《飢えた人》に最後の《パンを裂き与え》た人が、次にもっと飢えた人に出会った時、その責任を取れるのか、あるいは何度も《裸の人》に《衣を着せかけ》ているうちに、自分の衣をすべて失った時、その社会の貧富の構造は旧態依然のままただ単にまた一人《貧しい人》が増えたに過ぎないではないか、といった心情倫理批判を念頭に置くならば、まず責任倫理的な改革が唱えられることは正しい。しかしそれだけでは、倫理はより直接的な愛の発露としての実質を失いがちでなのであります(Ⅰコリ13:3,13)」。

 

「《断食》も形式に堕する危険を見抜いていた預言者は、真の《断食》としての《正義》の実践にも、同じ危険を察知して語っていると言えるかも知れません。そのような倫理の実質としての愛に目覚めた時、神との交わりも開ける。《あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる》(9節)とはそのような麗しい神人関係の開けを歌ったものにほかならないのではないでしょうか」。

 

ですから、ここには、信仰者は社会正義を訴えるだけではなく、黙々と愛の実践に生きることの大切さが語られているのです。

 

「その時、人の周囲が《闇》であっても、《焼けつく地》であっても、恐れるに足らない。神御自身が《骨》すなわち人の支柱に《力》を賜り、人は自身《輝き》また《水の涸れない泉》となるからである。そして懸案の《廃墟》エルサレムの復興(イザヤ61:4,49:8)もおのずと成るであろう」。

 

「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」(8節)、「あなたの光は、闇の中に輝き出で」(10節)と言われていますように、帰還したユダヤ人たちは、エルサレム神殿の再建とユダヤの国の復興という歩みの中で、人々を照らす光となることができるだろうと言うのです。

 

このようなイザヤ書58章6節以下の預言は、現代を生きる私たちキリスト者の群れである教会にとってどのように受け止めることができるでしょうか。

 

私は9月になってから、寿地区センターの主事が退任することになり、寿の炊き出しやセンターのバザーに参加するようにしています。主事退任の後はセンターを設置しています神奈川教区の寿地区活動委員会が、次の主事を招聘できるようになるまでは寿地区センターの活動の責任を負うことになったからです。

 

今年度から寿地区活動委員会の委員長に私がまたなっていますので、退任する主事から寿地区センターの活動を引継ぐためです。クリスマス前に出すセンター通信の委員長就任の挨拶にも書きましたが、炊き出しで某教会の信徒の方から「寿の炊き出しは、主の祈りの『我らに日曜の糧を与え給え』の実践ですね」と言われましたので、私は「そうですね」と応えました。

 

主の祈りを私たちは礼拝毎に祈っています。その意味で主の祈りは日曜ごとの礼拝と深い関係があると言えるでしょう。神を礼拝するということは、日曜日の礼拝に出ることだけではありません。私たちは日々の生活の中で神を礼拝しているとも言えるからです。

 

「礼拝行為は限られた宗教空間における狭い意味の礼拝から、日常生活の空間における奉仕(→仕える)ないしこの世との戦いとして、拡大された意味における礼拝にまでなる(ロマ12:1-2)」(『旧約・新約聖書大辞典』より)のです。

 

ロマ12:1,2にはこのように記されています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにしなさい」。

 

捕囚から帰還したユダヤの民の生活は、現代の市民社会の中で生きているキリスト者(教会)の生活とは根本的に違っています。彼ら・彼女らはユダヤ教団という信仰共同体の中での生活だったと思われます。現代社会を生きる私たちのように非宗教的な市民社会の中で信仰生活(=教会生活)を送っているのとは根本的に違っています。私たちと虐げられた人や貧しい人である他者との関係は、捕囚から帰還したユダヤの民においては直接的な関係ですが、私たちの場合には市民社会を媒介とした間接的な関係になっています。

 

それでもイエスを主と信じ礼拝に与っている者は、今生活している現実の社会での日常生活も、礼拝者として生きていくことが求められているのではないでしょうか。日常生活を礼拝者として生きていくとき、この社会の中で、貧しくされたり、差別や偏見で苦しんている人のように、この社会の中で小さくされている人々のことを思い、神の前には全ての人が同等・対等なのですから、そのような人びとと共に生きることを目ざしながら、義と平和と喜びに満ちた神の国の到来を信じて生きていくのではないでしょうか。

 

預言者があくまでもユダヤ人(同胞)はみな平等だという理念(レビ25章、ネヘ5章)に基づいて、同胞の中にあった隷属関係は『悪による束縛』であり許されるべきではないと主張している」ことに、私たちも耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。

 

主がわたしたちをそのように導いてくださいますように!

 

 

祈ります。

 

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

神さま、わたしたちは日曜ごとに礼拝を捧げていますが、この礼拝者としての私たち一人一人を、日常生活の中でも礼拝者として生き抜くことができますように、 そして、御心ならば私たち一人一人が闇の中に輝く光として生きていけますように、私たちを支え導いてください。

格差社会の中で苦しむ人々、差別偏見で苦しむ人々を支えてください。私たちがみな平等で差別偏見のない社会を築いていくことができますように導いて下さい。

ロシアとイスラエルの軍事侵攻による戦争が速やかに停止しますように。

今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。

                                   アーメン。

 

  •  讃 美 歌      353(父・子・聖霊の)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-353.htm

  • 献  金

⑫ 頌  栄  28                                                        

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。