なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

聖霊降臨節第10主日礼拝説教「光の子として」イザヤ書2:1-5節

8月10日(日)聖霊降臨節第10主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。   (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌     18(心を高くあげよ!)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-018.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  イザヤ書2章1-5節(旧約1063頁)

⑥ 聖  書  エフェソの信徒への手紙2章14-18節(新約354頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   410(昇れよ、義の太陽)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-410.htm

⑨ 説  教   「光の子として」          北村慈郎牧師

 

8月6日の東京新聞一面に、「武器輸出の加速 懸念」と題して、「豪(オーストラリア)新型艦に『日本製』内定」という記事が載っていました。

 

この記事で記者は、武器輸出で「日本製の殺傷兵器が将来的に国際紛争で使用される懸念は拭えない」と言っています。

 

また、この記事の中で、室蘭工業大学憲法学の清末愛砂教授の次のような言葉が引用されています。「輸出の可否は国会ではなく、政府内の密室で決まった。戦闘機の次は護衛艦と立て続けに輸出が決まっており、歯止めが機能しているようにはみえない」と指摘。日豪が共同開発を通じて安保協力の深化を図ることに関して「軍事同盟のように結束して中国に対抗している構図になり、抑止力どころか衝突のリスクと緊張を高める」と話した、と伝えています。

 

この事実は、日本政府は中国を敵対視し、アメリカの軍事力の傘の下で、アメリカ以外の他国とも軍事同盟を結ぶことによって安全保障を得ようとしていることを意味しています。

 

憲法の平和主義に基づいて他国と友好関係を結び、軍事力によらない平和の構築、すなわち安全保障の道を、現在の日本政府は形骸化させて、ほとんど放棄しているとしか思えません。

 

今日のイザヤ書2章1-5節は預言者イザヤの預言の一節です。

 

イザヤ書は1章から39章が預言者イザヤの預言で、40-45章は第二イザヤの預言、46章以下は第三イザヤの預言になっています。それぞれ時代が違います。

 

イザヤが活動した時期は、紀元前739年のイザヤの召命から約40年間と言われています。

 

当時イスラエルダビデ・ソロモンの統一王国から南北に分裂していました。北イスラエルアッシリアによって紀元前722年に滅亡してしまいます。北イスラエルで活躍した預言者アモスやホセアですが、イザヤは南ユダで活躍した預言者です。

 

南ユダは紀元前586年にバビロニアによって滅ぼされ、南ユダのイスラエルの民は捕囚民となってしまいます。このバビロニア捕囚時代に第二イザヤは活動したのです。バビロニア捕囚は半世紀続き、バビロニアからペルシャに覇権が代わって、バビロニア捕囚民のエルサレム帰還が実現します。

 

第三イザヤの預言はその時代に活動した預言者のもので、第三イザヤは一人ではなく複数の預言者の預言が集められたものと考えられています。

 

当時パレスチナでは、覇権主義的な国がアッシリアからバビロニア、そしてペルシャに代わっていきますが、小さな国は軍事連合を結んで覇権主義的な国に対峙していたようです。それでも北イスラエルアッシリアに滅ぼされたように、覇権主義的な国によって滅ぼされる小国は多かったと思われます。

 

先ほど現在の日本政府は中国を敵対視し、アメリカの軍事力の傘の下で、アメリカ以外の他国とも軍事同盟を結ぶことによって安全保障を得ようとしていると申し上げました。この現在の状況は、預言者イザヤの時代の状況とほとんど変わらないと言えるかも知れません。

 

覇権主義的な国家が複数存在する時に、小国は一つの覇権主義的な国家や他の国とも同盟関係を結んで、別の覇権主義的な国家の支配から自分の国を守ろうとするのです。

 

その意味では、イザヤの時代も現在も本質的には違いがないかもしれません。ただ技術が伴う軍事力という点では、特に核を保有している現代はイザヤの時代とは根本的に違っています。大量殺人、大量破壊、人類滅亡。

 

イザヤ書2章1-5節の預言は、預言者イザヤの晩年のものと言われています。北王国イスラエルアッシリアに滅ぼされ、アッシリアの攻撃によって南王国ユダも荒廃に帰した後に、イザヤは「神によって到来する真の平和を預言した」というのです。

 

イザヤ書2章2-4節には、民族や国家間の争いが神によって裁かれ、多くの民も国々も神の下に来て、神が示される道を歩むようになると言われているのであります。

 

2節、3節にこのように記されています。「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる/国々はこぞって大河のようにそこに向かい/多くの民が来て言う。/「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。/主はわたしたちに道を示される。/わたしたちはその道を歩もう」と。/主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る」。

 

そして4節に「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。/彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」と言われているのです。

 

このイザヤの預言には、神による終末の平和が語られています。預言者イザヤは、この2章2-4節で神による終末の平和の預言を語り、また、11章1-10節では「平和の王」の到来を語るメシア(救い主の)預言をしています。この二つの預言でイザヤは、神によって到来する真の平和と、その平和を実現する一人の王の到来を預言したのであります。この平和の王の預言が新約聖書ではイエスによって成就されたと言うのです。

 

預言者イザヤは、覇権国家であるアッシリアによる南ユダの荒廃の中で、この神による平和を信じて生きたのではないかと思います。私たちキリスト者も、人となった神であるイエスを信じて生きて行こうとしている者ですから、預言者イザヤと同じように神による平和に希望をおいて生きて行こうとしている者ではないかと思います。

 

しかし、そのようなキリスト者でありながら、かつて私たち日本のキリスト者の殆どは、太平洋戦争下の天皇制絶対主義的な日本の国家の戦争行為に逆らうことができずに、戦争協力に邁進してしまいました。

 

その経験を通して加害者としても被害者としても、戦争の非人間性をいやというほど私たちは味わわされたのであります。他国の無辜の人々を沢山殺したという加害の事実と共に、沖縄の地上戦や広島、長崎の原爆投下、戦災による戦争の悲惨さは言語に絶するものがあり、決して忘れてはなりません。

 

バルトは、「他ならぬキリスト教倫理から見れば、終わったばかりの(最初のか最後のかはわかりませんが)二つの(第一次、第二次)世界大戦の後、今日では以前の世代とは異なり楽観的な欺瞞を持たず、戦争の現実を面と向かって見ようと強いられていることは、望み豊かなことでありましょう」と言って、次のように語っています。

 

【兵士、つまり今日では戦争をする市民は、直接に「死刑執行人」の横に並ぶようになります。戦争は、国家社会の構成員が一丸となって殺人行為に従事している一つの行動です。その際、禁じられている「殺人」は問題となるか、とう問いの前にすべての人びとがともに立たされています。戦争で人を殺すことは、彼らの側で国家共同体に仕えて戦争を行わなければならぬという意味で「敵」であるに過ぎない、こういう人びとを殺す行為であります。

 

さて戦争における殺人行為は、同時に数百万の人びとにとって「全道徳」を――こう言ったほうがいいでしょう、神の掟に対する従順を、その一切の規模において問題とします。戦争では極めて広い前線で、神が禁じたほぼ一切がなされなければならないのではありませんか。

 

戦争を行う者たちは、実際に人を殺すことができるよう、それとの関連で、盗み、強奪し、放火殺人をし、嘘を言い、欺き、中傷し、残念ながらさらに買春もしなければならないはずではありませんか。(戦争という)宇宙全体に問題となるこの行為の先端で、残酷にも殺人だけが問われるところで、どうして兵士たちに信じて祈れと言うのか。

 

それは、何はさておき起ってはならないことです。キリスト教の判断からすれば、正しい国家を、神により望まれた政治的秩序を作り出す正常な、不変の、いわば本質的に必要な要素なのだなどと、戦争が見なされてはなりません。

 

たしかに、国家は権力のこのような担い手としてあり、このようなことも行ないうるに違いありません。だが国家は無論とにかくそれを行いますが、キリスト教倫理は、何はさておき国家にそれを行えと言い表してはなりません。

 

どんな場合にも、暴力の行使は国家の本質、「国家の本来の働き」、あるいは国家の一部になるということは決して表明してはなりません。むしろ国家が「暴力」を行使しなければならないなら、それは確かに国家の「異質の働き」であると言うべきです。

 

キリスト教倫理は、国家がこのような暴力行使の問題で、喜んで平然と、国家とその機関が正しいと思っていることを行なってよいと国家に証明すべきではありません。むしろキリスト教倫理は、国家がこれを行ういかなる場合でも、それを実際に行なう必要があるか、という問いで国家に立ち向かわなければなりません。

 

ましていわんや、キリスト教倫理は、国家的に組織された大量殺人挙行のため外国に向かう最後手段把握のため、国家に白紙委任状も認可証も与えてはなりません。

 

そうではなくて、キリスト教倫理はどんなに大声で次のことを注意させても十分ではありません。この大量に人を殺すことは「大量殺害」となる、実際、他の可能性とは違い、この最後の可能性はまさに最も暗い日の最後の時にしか掴んではならない、と、キリスト教倫理がそれを言わないところ、その重要さを決定的にこの秤にかけないところでは、キリスト教倫理は味の抜けた塩であり、四方八方から踏みにじられても不思議に思わないような、吠えない犬になってしまいます】。

 

戦時下の私たち日本のキリスト者の殆どの人は、「味の抜けた塩」であり、「吠えない犬」でありました。現在の日本政府が軍備増強をすすめていることは、「大量殺害」をもたらす戦争の準備を進めていることを意味します。

 

この時に私たちの教会は戦争の準備を進める日本の国のその行為を止めるために声を上げていかなければならないのではないでしょうか。私たち日本のキリスト者が、再び過ちを繰り返さないためにも、「主の光の中を歩もう」(イザヤ2:5)ではありませんか。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

8月は特にかつて私たちの国が犯した戦争犯罪について、8月6日と9日の広島・長崎への原爆投下をはじめ、戦争の悲惨さについて思いを馳せ、平和の大切さを確認する時です。現在世界ではあちこちで軍事衝突が起きています。神さま、どうか国家や民族を異にする人間同士が、軍事力ではなく、対話による問題解決の道を歩めるように導いてください。

エスは、最も弱い立場の人を大切にされました。暴力によって他者を排除することはしませんでした。あなたのみ心に従って誰も排除せず、共に生きられました。私たちもイエスに倣ってそのように生きることができますように。

今様々な苦しみの中にある者をその苦しみから解き放ち、おごり高ぶる者を打ち砕いてください。

今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。

                                  アーメン。

 

  •  讃 美 歌   509(光の子となるため)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-509.htm

  •  献  金
  •  頌  栄  28

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

  •  祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。