なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(69)

 2週間ほどブログに記事を掲載できませんでした。このところ掲載する記事は毎週の週報に書いて

います「船越通信」と日曜日の説教ですから、1週間に二つの記事は掲載できるわけですが、ついつい

仕事や集会が続いたりすると、スルーしてしまうのです。来週は少し自由な時間がありますので、たま

っているものをアップしたいと思います。




     「聞き従う、聞き従わない」エレミヤ書27:12-22、
  
                      2017年7月2日(日)船越教会礼拝説教

・先週の説教で沖縄のことを少しお話ししましたが、今日も最初に沖縄のことに触れさせていただき

たいと思います。

・ご存知のように、戦後沖縄では現在に至るまで米軍の支配と日本政府による植民地化によって、民衆

は不当な苦しみを受け続けています。その中で辺野古や高江での基地建設反対運動には、沖縄県内外か

ら個々人が集まって来て、ある種の解放区がつくられているように思われます。

・森宣雄さんは、ご自身の著書『沖縄戦後民衆史』の中で、2015年ごろまでの辺野古の新基地建設反対座

り込みの現場の様子を紹介して、このように語っています。今はもっと厳しくなっていますが、その部分

を紹介させてもらいます。

・《工事車両が出入りする辺野古キャンプ・シュワブのまえや沖合の工事現場周辺では、県内外からか

けつけた個々人が連日座りこみ、あるいはカヌー隊を組んで抗議行動を展開した。機動隊や海上保安庁

員によって強制排除され、けが人を続出させながらも、人びとは暴力で対抗するのではない意思表示のし

かたを話し合い、警察官や海保職員、民間警備会社の警備員たちに抗議と説得を続けた。ゲート前でうた

を歌い、サンシンをかきならしならしてカチャーシーを乱舞し、花を植え、日陰をつくり、隣り合う人び

ととたがいに気づかい助けあいながら、軍事基地のまえをにぎやかなつどいの場に変えていった。かつて

海上闘争の蓄積のうえに、これまでをはるかにしのぐ<沖縄の政治空間>の充実と自立があらわれた。

・・・・・/戦争と軍事の論理のなかにいる人びとを<平和への意思>で包囲し敵味方の境界をまたぎ、

基地に支配されない“いま、ここ”からあらしめようとする「優しい社会」。現場におけるこうした「沖

縄らしさ」のあらわれは、基地建設の問題を、政治や軍事にとどまらない沖縄社会の自己確認、アイデン

ティティーの問題としてうけとめる社会意識を大きく後押ししている。現場にはいつもだれががあつまっ

ている。そこには沖縄の人びとが平和のこころざしをたしかめあい、うちなーんちゅである誇りよろこび

を分かちあう場でもある。/またその一方で、辺野古や東村高江のヘリパッド建設反対運動の現場などで

は、自然や文化、人がらや思想にひかれ、日本から応援にきたり移住した人びと、とくに若者たちが日々

の活動のかなりの部分を下支えしている。おなじ米軍基地に苦しむ韓国をはじめとするアジアやアメリ

などからの訪問客も絶えない。平和をもとめる世界のひとびとがつどう草の根の国際連帯の場でもある。

/ねばり強くしなやかに軍事の論理に対峙し、武装解除とアジアの平和をよびかける解放区――それをゲ

ートまえの世話役、山城博治さんたちは「辺野古の自由」とよぶ》(同書244-246頁)。

・こういう辺野古や高江での基地建設反対運動に連なる人々の生き様は、政治的な空間としての辺野古

高江で現れているもので、日常生活の場でのものではないかも知れませんが、ある意味で、預言者エレミ

ヤがイスラエルの民の本来あるべき姿として考えていた、契約共同体としてのイスラエル社会のあり様に

近いのではないかと思えてなりません。エレミヤは、国家としてのユダの国の存在を絶対的なものとは考

えていませんでした。一人の神ヤハウエの下に、対等同等な個々人が他者の命と生活を脅かさないで、共

に助け合い、支え合って生きる共同体としてのイスラエルを、エレミヤは何よりも大切に考えていたと思

うのです。ですから、覇権国家バビロニアによる第一回捕囚後に、バビロニアのネブカドレツアルによっ

て、エルサレム残留民のために立てられたゼデキヤが、周辺諸国と軍事同盟を結びバビロニアに反旗を翻

して軍事的な行動に出ることに、エレミヤは否定的でした。前回の説教でも触れましたように、エレミヤ

は、軛の横木と綱を作って、自らの首にはめて、ゼデキヤの下に集まった五つの国の使者たちの前に立ち、

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちの主君にこう言いなさい》(4節)と言って、

《・・・バビロンの王ネブカドレツアルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国があ

れば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する、と主は言われる。最後には彼の手をもって滅ぼ

す》(8節)と語ったのです。

・先程司会者に読んでいただいたエレミヤ書の箇所には、最初に《ユダの王ゼデキヤにも、わたしは同じよ

うな言葉をすべて語った》(12節)と言われています。エレミヤはゼデキヤの下に集まった五つの国の使者た

ちに、バビロンの軛を負えと語ったように、同じ言葉をゼデキヤにも語ったというのです。エレミヤは、周

囲の諸国と反バビロン同盟を結ぶか否かの岐路に立つゼデキヤ王に対して、バビロンの軛を負えと進言した

のです。バビロンへの服従こそが神の意志に沿う道であり、生きのびる道であると。反バビロンを主張する

偽りの預言に耳を貸してはならない。いたずらに死を選ばす、賢く命を選べと、エレミヤはゼデキヤに語っ

たのです。

・もしエレミヤが現代に現れて、日本の国の安倍晋三首相に進言するとすれば、戦前の富国強兵による天皇

制国家のアジアへの侵略戦争の誤りを反省し、軍事力に頼る強い国家ではなく、弱くとも憲法9条に基づく世

界平和の構築に、日本の国が先頭に立って働いていくように言うと思うのです。しかし、安倍晋三さんはこ

のような進言に耳を貸さないでしょう。ゼデキヤもエレミヤの預言に耳を貸しませんでした。安倍晋三さん

日本会議という国家主義的な考えもつグループの一員として、そのグループの進言に従って行動している

ように、ゼデキヤは偽預言者の進言に従って行動したのです。

・ゼデキヤはエレミヤの進言に従いませんでした。その結果、ゼデキヤはバビロンに対する反逆の試みが不

成功に終わった後、紀元前587年にネブカドレツアによって捕虜にされました。ネブカドレツアルは彼を盲

目にさせて、鎖につないでバビロンにつれていったのです。そしてゼデキヤはバビロンで死にました。ゼデ

キヤは、15節に偽預言者の偽りの預言に従って、バビロンの軛を負って、バビロンに仕えることを拒絶すれ

ば、《わたしはあなたたちを追い払い、あなたたちとあなたたちに預言している預言者を滅ぼす》と言われ

ている通りの運命を辿ったのです。

・今日のテキストの後半、16節から22節までには、エルサレム神殿の祭具について記されていますが、そこ

でも真実の言葉を語る預言者エレミヤと偽りの言葉を語る偽預言者の問題が浮き彫りにされています。もし

ゼデキヤがエレミヤの預言い従って、バビロンの軛を負ってバビロンに仕える道を選んでおれば、第二回の

バビロン捕囚は起こらなかったかも知れません。11節に《しかし、首を差し出してバビロンの王の軛を負い、

彼に仕えるならば、わたしはその国民を国土に残す、と主は言われる。そして耕作をさせ、そこに住まわせ

る》と言われているからです。

・しかし、その可能性はゼデキヤの悪しき決断によって失われてしまいました。政治的権力を握っている者

の判断・決断が、その国に所属する全ての人の生存にいかに大きな影響を与えるものであるか、私たちも15

年戦争、太平洋戦争で身に染みて経験してきたことです。特に沖縄の方々は日本の国の中で唯一地上戦が行

なわれ、戦後米軍支配下に置かれ、日本復帰後も、同じ日本でありながら、日本の国の植民地支配を受けて

、0.6%の国土に74%の米軍基地を押し付けられて、現在に至っているのです。しかも日本政府は、世界で最

も危険と言われる普天間米軍基地に代わる新しい基地をヤマトにではなく、沖縄の方々の民意を無視して、

沖縄の辺野古の美しい海を埋め立てて作ろうとしているのです。その場所に個人が集まって、戦争と軍事の

論理にではなく平和への意思を貫く人の集いが生まれているのであります。

・何に聞き従い、何に聞き従わないのか。預言者エレミヤは神の言葉の真実に即して、この問いを、今も私

たち一人一人に向けて問いかけているのではないでしょうか。戦時下の教会は、このエレミヤの問いかけに

応えることが出来ませんでした。時代の激流に呑み込まれて、語るべき言葉を語らなかっただけでなく、む

しろエレミヤが批判する偽預言者の言葉、戦争協力の言葉を語ったのです。

・1967年のイースターに鈴木正久教団議長名で出された、「第二次大戦下における日本基督教団の責任につ

いての告白」、いわゆる「戦責告白」がだされてから、今年は50年目になります。共謀罪が成立して、この

国の政治が戦前に回帰するかのような状況にあって、私たちは聞き従うべき言葉に大胆に聞き従い、語るべ

きことを語り、平和を求める人びとと共に、平和を造り出す業に参与していきたいと思います。