なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

イースター礼拝説教(ヨハネ福音書20章Ⅰ-18節)

        「墓で起きたこと」ヨハネによる福音書20:1-18、
                     2012年4月8日 イースター礼拝 船越教会

・もう7,8年前になりますが、紅葉坂教会での牧師の働きが11年目に入る時でした。求道者の方々にイースターの案内を、「11年目へ向けての挨拶に代えて」という私の短い文章を添えて出しました。すると、一人の方から丁寧なお手紙をいただきました。その方には若いときから心を病んでおられるお姉さんがいます。お母さんがお元気だった頃は、そのお姉さんをお母さんが世話されていました。お母さんがお年を召してお姉さんの世話をすることができなくなってからは、弟のその方がこの8年間ほどお母さんとお姉さんの世話を続けておられました。3年半くらい前にお母さんはお亡くなりになりました。今は特別養護老人ホームに入っていますお姉さんの世話をしておられますが、お姉さんを見舞っても反応が全くなく、暖簾に腕押しの接触なので自分の気力も失いつつあり、また、最近そのホームから長期療養型の病院に移ってほしいと言われていて、今後のことを考えると、自分も年をとってきているので不安でたまらないというのです。

・そして、このように書いて来られました。「ついついグチを申してしまいました。ご容赦ください。クリスト教徒でない小生には神は居るとは思えない今日この頃なのです。北村様も、紅葉坂教会で10年とか。いろいろご苦労もおありかと思います。書かれた言葉を読み返してみましたが、今の私にはどうあてはめたらよいのか、残念ながら解りかねます。お礼を申し上げるつもりが、逆になってしまい、ご不快を与えてしまったかも知れません。お許しください。」

・この方が自分に当てはめて私の書いた言葉が解りかねると言われるのは、私がこう書いたことです。私は10年ということで、ちょうど10年前の阪神・淡路大震災とオーム真理教による地下鉄サリン事件に触れて、このように書いたのでした。「大地震は自然災害ですが、地下鉄サリン事件は人災です。自然と人間の狂気の前に私たちは全く無力でした。果たしてその脅威に打ち勝つ道は私たちにはないのでしょうか。私は『神と人、人と人とをつなぐ』イエスの福音にはその力があると信じています。このイエスの福音の宣教のために、これまで以上に働いて参りたいと願っています。みなさまのお支えをよろしく願い申し上げます。」

・私はこの方のお手紙から、あなたが私の立場だったら、同じことを書けますか。人間を無力にする脅威の前で、それでもその脅威に打ち勝つ力がイエスの福音にはあるなどと、本当に言えますか。そういう問いかけを受けたように思いました。厳しく考えれば、当事者ではないから、そんな勝手なことが言えるのではないかと。

・先日も、ある方の納骨を頼まれて、墓地に行きました。頼まれたのは、私の友人で、私は彼が高校生の時から知っています。画家ですが、もう60は過ぎていると思います。納骨は彼の母親です。先々週の土曜日でしたが、雨のひどい日でした。私を入れて6名の参列者でした。墓地を管理している係の人に、雨がひどかったので、すぐに納骨していただき、その場では一言祈って、その後雨を避けて墓地の近くに止めてあった自動車の中で式をしました。彼は、母の遺骨が墓地に治められた時、豪雨の中でうずくまり、普段の顔とは違う悲しみを露わにした顔をしていました。その彼の顔を見て、改めて母親の死が、どんなにか、その息子を打ちのめすものであるかを、思い知らされました。

・今日のヨハネによる福音書に記されています、マグダらのマリアも、イエスが納められた墓地に来た時は、イエスの死に打ちのめされていたのではないでしょうか。ところが、墓に来てみると、その墓にはイエスの遺体はありませんでした。遺体を包んでいた亜麻布と頭を包んでいた覆いだけが残されていました。マリアは、イエスの遺体が誰かに持ち去られたと思い、ペテロとイエスの愛されていたもう一人の弟子のところに走っていって報告しました。二人は墓の中に入って、イエスがいないことを確認して、家に戻って行きました。そのところのヨハネの記事には、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(9節)と注意書きのように記されています。

・マグダらのマリアは墓を去りかねて、墓の前で泣いていました。そして墓の中をのぞくと、「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えて、天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」とマリアに語ったというのです。マリアはイエスの死に悲しみ、遺体が亡くなったことに不安を感じていたに違いありません。そのマリアに、「天使たちは「なぜ、泣いているのか」と言われたというのです。その後マリアは復活したイエスと出会い、イエスにすがりつこうとすると、イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。その復活のイエスの言葉を聞いて、マリアは弟子たちのところへ行って、「『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(18節)のです。

・マグダらのマリアは復活の主イエスとの出会いによって、イエスの死の悲しみを克服して、復活の主イエスと共に、死を命に変える神の力を信じて生きていったのでしょう。このイエスの復活の物語を読み、マグダらのマリアのことを考えるときに、死に打ちのめされる私たちですが、それでも私はイエスの福音には死を命に変えるエネルギーがあるのではないだろうかと、本気で信じたいと思っています。マグダらのマリアと同じように、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら十字架上で息絶えたイエスと、その後打ちひしがれていた弟子たちに、もう一度ガリラヤからやり直そうという思いを込めて、弟子たちにガリラヤで会おうと伝えさせた復活のイエス、そしてイエスの顕現に出会って、立ち直って歩み出した弟子たち、そのようなイエスの十字架と復活の出来事が伝えるメッセージに触れますと、死を命に変えるエネルギーがイエスの福音にはあると信じざるを得ないからです。誰もが解るようにそれを証明することは、私にはできません。が、自分なりにその証言を生きている限り続ける以外にないと思っています。

・さて死を命に変えるイエスの甦りの命とは、どのような命なのでしょうか。精神科の医者でキリスト者の柏木哲夫さんという方が、『心をいやす55のメッセージ』という著書で、「生命と命」という題で、ヨハネ福音書の14章6節の「イエスは彼に言われた。『わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通らなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』」のテキストをめぐって書いています。その中で、ある学会で特別講演された方が、その講演で「生命と命とは違うと思います」と言われたことに言及しているところがあります。〈「生命というのは閉じられているという特徴がある。それに対して、命というのは開かれているという特徴がある。生命というのは有限であるけれども、命というのは無限である」。だから二者は違うのだというのです〉。

・続けて柏木さんは〈確かに私たちは「生命」という言葉と「命」という言葉を、どこかで分けて使っているように思います。私も「生命」には閉じられた有限さを感じます。「生命保険」の生命もどこかで終わってしまうような印象があります。「生命維持装置」も、それを外せば生命は終わりです。それから、生命は人間の皮膚の中に閉じ込められているという感じがします。心臓が動き、肺が動き、内臓が動いて、私たちの生命を保っているわけですけれども、それは体全体を覆っている皮膚の中に閉じ込められた生命です。しかし、「命」という言葉は皮膚を突き破って拡散するというか、広がるというか、そういう性質をもっているのではないかと思います。たとえば、「この病院の命は全人医療です」という場合、「命」もずっと続くもの、広がるものという、そんな感じがします〉。

・私はこの生命と命という言葉の違いからヒントを得て、こんな風に思い巡らすことができました。十字架上で確かにイエスの生命は絶えたが、イエスの命はその死を越えて輝いていると。生前のイエスの活動も、死を越えて輝く神からの贈り物としての命のために自分の生命を捧げて生きたのではないか。命を使って生きるために自分の生命を捧げたと。十字架を担って生きるということは、そういうことではないかと思うのです。

・そこで改めにて福音書の次のイエスの言葉を思い起こします。「自分の命を得よとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:39)。生命は自分の皮膚の内側に囲い込まれていますが、命は自分の皮膚の内側に囲い込むことは、そもそもできないことなのです。それを無理にしようとすれば、かえって私たちは命を失うのです。逆にイエスを信じて、命を使って生きるために自分の生命を捧げる者は、かえって命を得ることになると。

・最後にフランクルの「夜と霧」に記されています、ドイツの強制収容所で亡くなった若い女性のことを紹介して終わります。若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。〈「運命に感謝します。だって、わたしをこんなひどい目にあわせてくれたんですもの」。彼女はこのとおりにわたしに言った。「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」。その彼女が、最後の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」。彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。板敷きの病床の高さにかがむと、病棟の小さな窓からは、花房をふたつつけた緑の枝が見えた。「あの木とよくおしゃべりするんです」。わたしは当惑した。彼女の言葉をどう解釈したらいいのか、わからなかった。意識障害の状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。それでわたしは、木もなにかいうんですか、とたずねた。そうだという。ではなんと? それにたいして、彼女はこう答えたのだ。「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって・・・・」〉(新版116-117頁)。