なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(57)

        使徒言行録による説教(57)使徒言行録16:1-5、
             
・前回、使徒言行録によれば、最初期の教会の歴史にも、すでに多様な信仰理解があったということを見ました。ユダヤ人信徒を中心にしたエルサレム教会と非ユダヤ人信徒を中心としたアンティオキア教会では、そのために教会会議を開く必要がありました。また、第一回伝道旅行を共にしたパウロバルナバも、第ニ回伝道旅行からはお互いに別々に活動をするようになりました。そこには、ただヨハネ・マルコを一緒に連れて行くかどうかということだけではなく、二人の間には宣べ伝える言葉の内容において、微妙な違いがあって、そのために別行動をとらざるを得なかったのではないかということを見ました。パウロにとって、バルナバとマルコとの別離は、一つのつらい経験ではなかったでしょうか。

・第二回伝道旅行を、パウロはシラスを伴い、アンティオキアから陸路北上し、それから西に向かってキリシアの峡門を越え、かつてバルナバと共に福音を宣べ伝えた町々へと、足を運んでいきました。中でも特にリストラは、彼が石で打たれて死に瀕した場所です。パウロはその時、福音の宣教に伴う生死に関わる苦難を、おそらくはじめて経験したのではないでしょうか。そういう意味でも、再びリストラの町を訪れたパウロは、その時の記憶が甦り、緊張していたに違いありません。ところがそのリストラで、パウロはテモテに出会ったのです。このテモテは以後パウロの生涯の終わりに至るまで、彼と歩みを共にする人物です。そのようなテモテを得たということは、パウロにとっては、どんなに大きな慰めだったことでしょうか。

・このテモテのことを、今日の使徒言行録の個所で、その著者ルカは「テモテという弟子」(16:1)と呼んでいます。そのことは既にテモテはキリスト者だったことを意味します。テモテへの手紙一の挨拶の個所には、「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエス使徒となったパウロから、信仰によるまことの子テモテへ」(1:1)と言われています。「信仰によるまことの子」ということからしますと、テモテはパウロの伝道を通して入信したことになります。そうだとすると、第一回伝道旅行の時に、パウロとテモテの最初の出会いがあったのかも知れません。

・ルカはこのテモテについて、「彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった」(16:2)と言っています。「評判の良い人であった」とは、「称賛されていた」とか「高く評価されていた」ということです。テモテの何がリストラやイコニオンの信徒たちから称賛され、高く評価されていたというのでしょうか。

パウロはコリントの信徒への手紙一の4章16節17節でこのように記しています。「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者となりなさい。テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしの教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせてることでしょう」と。ここには、テモテはみずから身をもって、パウロの生きざまをコリントの人びとに示すことができると言われているわけです。またフィリピの信徒への手紙2章22節でも、「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と記されています。そこまでパウロがテモテのことを言うのですから、パウロがテモテに絶大な信頼を置いていたかがよく分かります。そのようなテモテを同労者として与えられたのです。パウロの喜びと感謝の大きさがうかがい知れます。

・このようなテモテに関するパウロの言葉を読みますと、パウロは福音宣教をただ言葉によるだけでなく、自らの生き方において行なっていることが分かります。イエスの十字架の福音を語る時、パウロは自ら十字架を背負うことによってそれを語ったということではないかと思います。「十字架の言葉は、滅んでいく者には愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(汽灰1:18)と語ったパウロは、イエスの十字架を自分もまた背負って生きようとしていたのです。その意味では、自分の語る言葉とその言葉にふさわしい生き方とがかけ離れていては、他者に対する説得力はありません。リストラやイコニオンでキリスト者の間で評判の良い人であったテモテを同労者として得たことをパウロが喜んでいるのも、テモテという人物は信仰と生活が一致していたからだったと思われます。

・ある方がアフガニスタンイラク戦争をしたアメリカのブッシュ大統領キリスト教信仰を批判して、ブッシュのというか、アメリカのキリスト教には神はあるが、十字架はないということを言っています。これは私たちの教会とキリスト者に対する根本的な批判だと思います。先日全盲の飯塚光喜牧師をお訪ねしてしばらく懇談の時を持ちましたが、今の教団の在り方を(特に改訂宣教基礎理論)批判して、受肉の信仰が欠けていると強く言われました。神はイエスを通して、愚かな者、虐げられている者、美しさではなく汚れの只中にいまし給うのではないか。そういうところが全く欠けていると。

・信仰と生活が分離していては、いくら福音を語っているといっても、その福音は空しい言葉に過ぎません。私たち自身も同じ過ちを犯す者ですが、信仰と生活、言葉と行いに一貫性があるように心掛けたいものと思います。福音宣教は、そのような私たちの在り様を通して他の人に伝えられていくのですから。そういう意味で、テモテが「評判の良い人」「称賛され」「高く評価されていた」ということは、テモテが信仰と生活に一貫性がある人であったということではないでしょうか。

・今日の使徒言行録の箇所から学ぶことのできる一つの事は、そのことです。この個所からもう一つ、パウロがテモテに割礼を施したことをどのように考えたらよいのでしょうか。またそこから私たちが聞くことのできるメッセージはなんでしょうか。

・16章3節に、「パウロは、テモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシャ人であることを、皆が知っていたからである」と言われています。テモテは父親がギリシャ人で母親がユダヤ人の子どもでした。第ニテモテ書によりますと、母だけではなく、祖母もキリスト者であったと言われています。「あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています」(1:5)。パウロが第二回伝道旅行の際にリストラでテモテに出会った時には、ギリシャ人の父親は既になくなっていたのではないかと思われます。

・「ユダヤ教のラビ的規定では、ユダヤ人の女は異民族の男と結婚することが禁止されていたから、これは正式の結婚ではなかったのだろう、という意見がある。そしてその場合は、その女の子どもはユダヤ人とみなされたと。・・・しかし「正式」とはいったい何なのだ? ユダヤ人社会とはそういうものであるから、この女性はそれが嫌でユダヤ教を捨て、キリスト信者になったのだろう。ギリシャ人の男性と結婚したのも、同じ理由からかもしれない。ユダヤ教の側から見ればこれは「正式」の結婚とはみなされなかったとしても、そのギリシャ人の男性からすれば(まわりのギリシャ人社会の眼も)、それは「正式」の結婚だったろう。それに、この母親がテモテのことをユダヤ教徒として育てる意志など毛頭なかったことは、明瞭である。それなら、生まれて八日目に割礼を施していただろう」(田川健三『使徒行伝』418頁)。

パウロがテモテに割礼を授けたことは、この使徒言行録に記述によれば、<「伝道政策」上のこと>(岩波註221頁)だったと思われます。このことは、パウロがガラテヤの信徒への手紙5章機4節で言っていることとどのように関わるのでしょうか。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があります。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みを失います」。このガラテヤの信徒への手紙の箇所からすると、パウロがテモテに割礼を授けたというルカの記述が疑わしく思われます。

・しかし、同時にパウロはこのようにも言っています。第一コリントの信徒への手紙9章19―23節です。それによれば、パウロはすべての人に対して自由であるが、「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである」(9:23)と記しています。この原則に従って、テモテに割礼を受けさせたのではないか、と見る人もいます。

・しかし、コリントの信徒への手紙での記述は、パウロの主体的な在り方の問題であって、テモテに割礼を授けることとは、その意味内容が異なるから、この所を根拠にして、パウロがテモテに割礼を授けたとは言えないでしょう。また、4節に「彼らは方々の町を巡回して、エルサレム使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人びとに伝えた」とありますが、これもパウロが実際に行ったかは疑わしいといわれています。

・「ルカは明確に護教的意図をもって、パウロエルサレム教会との一致を、強調したのではあるまいか」(高橋三郎)ということなのでしょうか。何れにしても、パウロは、ユダヤ人と非ユダヤ人の狭間でイエスの福音を宣べ伝えるたのですから、割礼についても、原則を貫くだけでなく、現実的な対応として、非ユダヤ人に割礼を受けさせることはなかったでしょうが、ユダヤ人との関わりを考えて、ユダヤ人の女性から生まれたテモテには割礼を受けさせたのかも知れません。

イエス・キリストにあっては、「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです」(ガラテヤ3:28)。この信仰的確信に立って、ユダヤ人と非ユダヤ人の多様性を認め合って、共に生きることが求められたのでしょう。それにしても、テモテという同労者を与えられたパウロは、どんなに大きな慰めと励ましを得たことでしょうか。