注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 (ヨハネ3:16)
③ 讃 美 歌 11(感謝に満ちて)
https://www.youtube.com/watch?v=aqQQeN-MCck
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編103編1-13節(讃美歌交読文111頁)
⑥ 聖 書 ヨハネによる福音書21章1-14節(新約211頁)
⓻ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 327(すべての民よ、よろこべ)
https://www.youtube.com/watch?v=5e5dYE6qCVc
⑨ 説 教 「朝の食事を共に」 北村慈郎牧師
ヨハネによる福音書は、前回の20章31節で終わっていて、今日の21章はヨハネによる福音書に後から付け加えられたものであり、「付録ないしは追記」と言われています。それが、ヨハネ福音書記者自身によるものか、或いは後の編集者によるものかという点では、多くの学者は後者を支持しているようです。つまり、ヨハネ福音書21章は後の編集者によって付け加えられたと考えられています。
今日は、そのヨハネ福音書21章の前半部分の1-14節の与えられた聖書本文に即して、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。
先ずヨハネ福音書21章で記されていることは、20章の復活したイエスの顕現物語の続きになっています。それは、21章14節に、<イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である>と記されていることからも明らかです。
しかし、復活したイエスが弟子たちに現れた場所は、20章では、十字架につけられて殺されて死んだイエスの場所であるゴルゴダの丘のあったエルサレムだったと思われます。
マグダラのマリアに復活したイエスが最初に現われたのですが、その場所はアリマタヤのヨセフとニコデモがイエスを埋葬した墓であり、その墓はゴルゴダの丘の近くにあったと、20章41節に記されています。<イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった>と言われていて、その墓にイエスを納めたからです。
マグダラのマリアに現われた復活したイエスは、その後弟子たちが恐れて、「戸に鍵をかけていた」家に二度現れています。二度目は一度目の「八日後」と言われています(20:26)が、その弟子たちがいた家もおそらくゴルゴダの丘から近くにあった家だと思われます。ですから、当然その家はエルサレムの町の中にあったと思われます。
ところが、21章の復活したイエスの現れた場所は、イエスが最初に宣教活動をはじめたガリラヤであり、イエスの弟子たちの故郷です。しかも、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の湖畔です。ペテロはイエスの弟子になる前は漁師でしたが、ペテロとその他の弟子たちがテベリアス湖(ガリラヤ湖)に夜漁に出て、一匹の魚も網にかからずに朝を迎えた時です。
このことは、弟子たちはエルサレムで2度復活したイエスに出会い、そこで<父がわたしをお遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わす>(20:21)とイエスから派遣命令を受けていたにも拘わらず、故郷のガリラヤに帰って、イエスに出会う前の生活に戻っていたことを意味します。
つまり、弟子たちは、既に復活したイエスに出会っていまし、イエスから派遣命令を受けているのですが、そんなことがなかったかのように、毎日の生活のためにあくせくと働いている、イエスの弟子になる以前の彼らの日常の生活に戻っていたのです。
それは、復活したイエスから、あれほどはっきりと、この世への派遣の命令を聞きながら、もうそれを忘れてしまったかのように、旧態依然たる生活を送っている彼らの姿です。
しかも、この三節の終りに<しかし、その夜は何もとれなかった>と書いてあるように、徒労に終わることの多い毎日の生活の中で、虚しく時を過ごしている彼らの姿です。
井上良雄さんは、「ここにこのように記された弟子たちの姿は、私たち自身の姿そのままだと、言わざるをえません」と言って、このように言っています。
「もちろん私たちは、彼ら弟子たちのように、直接甦りの主に接した者ではありませんが、彼らの証しを通して、主の甦りの福音を聞いた者たちであり、か弱いものながらも主の甦りに対する信仰を与えられた者たちです。コリントの信徒への第一の手紙15章19節でパウロが言っているように、もし私たちからこの信仰が失われるようなことがあれば、私たちは、<すべての人の中で最も惨めな者>だと、言わざるをえない者たちです。しかしそれにもかかわらず、私たちの毎日の生活は、ここに記された故郷ガリラヤでの弟子たちの生活と、少しも違ったものではありません。彼らの場合と同様に、私たちの場合も、それは、主の甦りがなかったかのような生活であり、主の甦りを忘れてしまったかのような生活だと言わざるをえません」。
そのことは、私たちイエスに出会って信仰を与えられた者たちの共同体である現在の教会が、私たちの日常性の中に埋没していて、徒労に終わることの多い毎日の生活の中で、虚しく時を過ごしている、復活したイエスに出会ったにも拘らず、故郷ガリラヤに帰って生活していた弟子たちと同じではないでしょうか。
ところが、そういう弟子たちの生活の中に、突然、復活したイエスが積極的に介入して来られます。そのところが、ここには記されています。
すなわち、まだ夜の明け切らぬ霞がかかったような湖のほとりに、一人の人が立っていて、そこからあまり遠く離れていない浅瀬で漁をしていた弟子たちに、<「子たちよ、何か食べる物があるか」>と、声をかけます。弟子たちが、<「ありません」>と答えると、その人が、弟子たちに舟の右の方に網をおろすように指示を与えます。
弟子たちがその通りにすると、驚いたことに、おびただしい魚が、その網にかかります。この時、弟子たちの心には、かつて彼らがイエスと共にした日々のことが、急に甦ったのでしょう。
イエスを愛してもられた弟子がペテロに、「あれは主だ」と言います。するとペテロは、その主の所へ急ぐために、やにわに裸の上に上着をまとって、湖に飛び込みます。――水に飛び込む時、普通は着ている物を脱いで飛び込むのに、ペテロの場合には、裸のままでは主イエスの前に出られないと思ったのでしょう。逆に、着物を着てから、水に飛び込みます。滑稽と言えば滑稽ですが、ペテロにとっては大真面目な行動でした。ーー
そういうことで、弟子たちが舟から陸に上がってみると、そこには炭火がおこしてあって、パンと魚が用意されています。それに今とれた多くの魚も加えられて、そこで、主イエスを囲んでの弟子たちの朝の食事が始まります。朝の湖畔の静かな空気の中で、決して豊かとは言えないけれども、しかし命を養うのには充分な食事が用意されています。それに、からだを暖めるための炭火も燃えています。
弟子たちは、もうこの時には、今ここで自分たちと食事を共にしている人が誰であるかを、知っています。しかし、そのことを敢えて口にしようとする者はいません。彼らの心には、かつてイエスと共にした数々の食事の思い出が甦ったことでしょう。ことに、主イエスが十字架につけられる直前に、自分たちと共にされたあの最後の晩餐の思い出が、甦ったことでしょう。そしてまた、13節に、<イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた>とあるように、イエスは、最後の晩餐の時と同じように、ここでも食物をとって、弟子たちに分け与え給うのです。――14節には、<イエスが死者から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である>とありますが、「三度目」というのは、先程説明した通りです。
そのようなことが14節までに記されていることのあらましです。
オデイは、「ヨハネ21章の物語は、イエスの時の後の弟子たちの生を説明することによって、読者である共同体に告別説教の約束が共同体にとって何を意味するかを示すのである」と言っています。
つまり、ヨハネ21章の物語それ自体はイエスの復活物語ではないと言うのです。何故なら、その焦点はイエスの復活と昇天に置かれてはいないからです。その焦点がイエスの復活と昇天に置かれているのは、20章のイエスの復活物語での核心でありました。むしろ、21章の焦点は、イエスの復活を越えて、イエスが告別説教で語った未来の共同体である弟子たちつまり教会が、復活したイエスが昇天し父なる神の下に帰って栄光化された後にも、イエスが自分たちと共に生きていて下さることを経験し続けて、弟子たちである教会がイエスの業を前進させることができるようにと、読者を招いているのだと言うのです。
そのようにヨハネ福音21章の物語を受け止めることができるとすれば、ヨハネ21章1-14節のティベリアス湖での復活したイエスと弟子たちの出会いによる大漁と湖畔での朝の食事は、イエスの宣教における奇跡、とりわけカナで水を葡萄酒に変えたことと五千人の供食と同じ系列のイエスの奇跡物語と考えることができます。大漁と浜辺の朝食は共にイエスの賜物が、イエスが十字架につけられ殺されて死んで、復活し、弟子たちに顕われて、昇天した後にも続くことを示しているのです。ですから、このティベリアス湖畔のこの物語は、ヨハネ福音書1章16節の「彼の満ち溢れる豊かさから私たちは恵みの上に恵みを受けた」ということが真実であることを証言している物語であると言えるのであります。それ故に、ヨハネ21章1-14節はイエス復活後に誕生した教会(弟子たち)に対する祝福の物語であります。何故ならば、それはイエス復活後に誕生した教会(弟子たち)のために、その教会の生が神の豊かさと空前の思いもよらなかった賜物の経験を基礎としていることを具体的に示しているからです。
それゆえに、ヨハネ21章は「読者である共同体に告別説教の約束が共同体にとって何を意味するかを示すのである」と言われているのです。ヨハネ福音書14章から16章のイエスの告別説教では、イエスの時の後の弟子たちである教会共同体へのイエスの慰めと励ましの言葉が満ちているのです。
告別説教の初めにイエスは、<心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい>(14:1)と語っています。そして、<わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない>(14:6)。<あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしはあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である>15:16,17)。そして最後に、<これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている>(16:33)と語っています。
私たちの教会の営みは、生ける主イエスを中心に迎えた共同体の営みであり、そのことによって、イエスの業を証言しているのです。ですから、生けるイエスが中心にいてくださらなければ、私たちだけで教会の営みを担うことはできません。もし私たちだけで担うとすれば、私たちの日常性の中に埋没してしまい、徒労に終わることの多い毎日の生活の中で、虚しく時を過ごしている、復活したイエスに出会ったにも拘らず、故郷ガリラヤに帰って生活していた弟子たちと同じになるほかないのではないでしょうか。今もイエスを信じる私たちの中心にいて、私たちを導いてくださっているイエスを生き生きと受け止めて、イエスの業を前進していくことができますように。
主がそのように私たちを導いてくださいますように!
祈ります。
神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。
今日は、私たちの教会が、イエスから派遣されて、今この時に、イエスの業を前進するために立てられていることを、改めて強く思わされました。どうか小さな群れである私たちの教会ですが、主イエスが中心にいて下さり、あなたの豊かな恵みに与かることができますように、導いてください。
私たちの日々生きています現実の社会は、幸いとは言えません。破れに満ちています。皆が共に助け合って生きるのではなく、競争社会です。その中で苦しみ、悲しみ、傷つく人も多くいます。
神さま、高ぶる者を打ち砕き、あなたの前にすべての人が大切な存在であることを知らしめてください。私たちの中に神の国が到来しますように。
私たちもそのために働くことができますように、お導き下さい。
今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
戦争や貧困・差別、自然災害で苦しむ人々が、その苦しみから解放されますように!
新しい一週の全ての人の歩みを支えてください。
この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。
アーメン。
⑩ 讃 美 歌 206(七日の旅路)
https://www.youtube.com/watch?v=eHpeUcnauaM
⑪ 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。