なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(89)「強いられた恩寵」ヨハネ21:15-25

3月2(日)降誕節第10主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。   (ヨハネ3:16)

③ 讃 美 歌  57(ガリラヤの風こる丘で)

https://www.youtube.com/watch?v=Ss4Ad45y-zc

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編107編10-22節(讃美歌交読文120頁)

⑥ 聖  書   ヨハネによる福音書21章15-25節(新約211頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     521(とらえたまえ、われらを)

https://www.youtube.com/watch?v=gGuX_tMf100

  •  説  教   「強いられた恩寵」   北村慈郎牧師

 

今日でヨハネによる福音書による説教は最後になりますが、ヨハネ福音書21章15節―25節から語りかけを聞きたいと思います。

 

「食事が終わると」という15節の書き出しの言葉によって、この15節以下のペテロとイエスの間で交わされた対話が、ティベリアス湖畔での復活したイエスと弟子たちとの朝の食事の後であることが分ります。

 

すなわち、食事の後で、イエスがペテロに対して、先ず「「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛するか」と、尋ねられます。それに対して、ペテロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。するとそれに対して、イエスが、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われます(15節)。

 

この同じイエスとペテロの対話が三度続きます。さすがのペテロも、イエスが同じことを三度も繰り返し、自分に尋ねられるので、平静ではいられなくなったのでしょう。17節に、「悲しくなった」とありますように、ペテロは悲しみを覚えつつ、また同じ答えを繰り返します。

 

「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と。するとまた、イエスが、「わたしの羊を飼いなさい」と言われます。

 

これが、イエスとペテロの間で交わされた対話です。この対話において、復活したイエスがペテロに三度「あなたはわたしを愛するか」と問いかけたのは、イエスの十字架を前にして、「あなたも、あのイエスの弟子のひとりではないか」という人びとの問いに対して、「いや、そうではない」と、三度イエスを否認したペテロのことを心にかけていたからではないかと思われます。

 

エスを否認するという、取り返しようもない罪を犯してしまったという、そのことに対する悔恨、その罪の自覚が、ペテロの心の中には疼いていたに違いありません。彼は今、故郷に帰って漁などをして、一見平和な生活を送っていますが、しかしそのような彼を苦しめていたのは、何よりもあの時の記憶に違いありません。

 

そのようなペテロの傍らに、イエスは歩み寄って、「わたしを愛するか」と問われます。しかも三度も同じ問いをイエスはペテロにします。イエスが、今、自分に、このように三度も、同じ問いを繰り返されるのは、自分が犯したイエス否認の罪を問題にしているのだと、ペテロは思わずにはおれなかったでしょう。

 

またそれだからこそ、ペテロは、17節に「悲しくなった」とあるように、心に痛みを覚えざるをえなかったことでしょう。そのことを思うときに、ペテロは、どんなに身のすくむような思いで、このイエスの問いを聞いたことでしょうか。

 

しかし、17節で、ペテロは、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と、イエスに答えています。ペテロは、自分はイエスを否んで裏切ってしまったけれども、そのような自分ですが、イエスを今でも愛していることを、イエス自身が知っていてくださると言うのです。

 

復活したイエスから、「あなたはわたしを愛するか」と問われた時に、ペテロは、十字架を前にして3度イエスを否んでしまった裏切り者のこのような自分を、イエスは見棄てることなく、今も大切に思っていてくれる、自分はイエスを見捨てたけれども、イエスは自分を見捨てることなく、顧みて下さっていると、イエスの愛を感じたのではないでしょうか。

 

それが、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」というペテロの言葉となったように思います。

 

このことは、また、ペテロにとっては、イエスを否んでしまった自分の挫折と失敗が致命的なものにならないで、むしろ立ち直りの機会を、イエスによって与えられることになったのではないでしょうか。

 

森野善右衛門さんはこのように述べています。「復活の主がペテロに名ざしで語りかけられる、そこからペテロの悔改め(回心)が起こり、それはペテロの新しい人間としての第一歩のふみ出しとなる。それこそまさに弟子ペテロの復権(名誉回復)を意味する出来事なのであります。あの重大なつまずきと挫折が、人間ペテロの滅びとならないで、ペテロを愛するイエスの、変わることのない愛の言葉が語られる機会となる。そこでペテロは真に自分の罪を告白し、悔改めに導かれるのであり、そこにペテロの信仰のよみがえりがあると言えるのです」と。

 

キリスト者である私たちにとって肝要なことは、イエスを愛することです。そのイエスは、「ヨハネの子シモンよ」と名指しでペテロに呼びかけます。また、そのイエスは、キリスト(救い主)として、今を生きる私たち一人一人にも、名指しで呼びかけておられるのではないでしょうか。ペテロに「わたしを愛するか」と問われたように、私たち一人一人にも「わたしを愛するか」と、イエスから問われているのはないでしょうか。

 

エスは、「わたしを」愛するか、と問いかけているのであって、「わたしの教え」を愛するか、と問うているのではありません。まして「キリスト教を愛するか」と言われているのではありません。キリスト教は、イエスの弟子たちによってまとめられ、生み出された、歴史的制度と教義を持った宗教で、イエスの生涯と人格に基礎を置いていますが、イエスご自身と直ちに同一視することはできません。

 

歴史的宗教としてのキリスト教には、いろいろな付属物がまつわりついていて、果たして正しくイエスの精神を生かしているかどうかは、いろいろ問題があるところです。歴史的キリスト教は、戦時下の私たち日本基督教団のように、その歩みの中で多くの過ちを重ねてきました。キリスト教ではなく、生ける人格としてのイエス・キリストを愛するかどうかが、キリスト者にとっては何よりも大切なことなのです。

 

ペテロの手紙一、4章8節の「愛は多くの罪を覆うからです」という言葉が示しているように、このイエスとペテロの対話の中でペテロに示されているイエスの愛は、ペテロの罪を、文字通り覆います。そして、そのような罪の赦しの中から、「わたしの羊を飼いなさい」というイエスの言葉を、ペテロは聞くことになります。

 

この「わたしの羊を飼いなさい」というイエスの言葉は、ヨハネ福音書においては、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉に通底しているように思います。「あなたがた」である「わたしの羊」の中には、キリスト者だけでなく、キリスト者ではない私たちの隣人も含まれているのではないでしょうか。

「わたしの羊を飼いなさい」とは、ペテロが、イエスの愛によって罪赦されて新しく生ることができるようになったように、イエスの羊である隣人と互いに愛し合って生きるようにという、ペテロに対するイエスの招き、促しではないでしょうか。パテロは隣人を愛することによって、イエスの受けた十字架を受けることになるのです。

 

18、19節:<はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた>(新共同訳)

 

これは、イエスとペテロの対話の続きですが、ますこの18節でイエスが語っておられるのは、恐らく当時の格言あるいは諺に基づく言葉であろうと、言われています。すなわち、「人間は、若いころには自分で帯をしめて、思いのまま歩き回っているが、年を取ると、そういうこともできなくなって、人に帯をしめてもらい、自分としては行きたくない所に連れて行かれる」。そういう意味の格言風の言葉であったのでしょう。そういう言葉に基づいて、イエスは、ペテロが今後どういう人生行路を歩むことになるかを、語っておられるのであろうと思います。

 

すなわちイエスは、ペテロに対して、こういうふうに言われます。「ペテロよ、お前は私の羊を飼いなさい。しかしお前は、そのことによって、自分のこれからの生涯の中で、どういうことを経験しなければならないかを、知っていなければならない。お前は、格言にも言われているように、若い頃には自分で帯をしめて自由に歩きまわっていた。しかしやがて、お前には、そういうことが出来なくなる時が来るだろう。お前は、歳を取ってから、自分の手を伸ばすことになるだろう。すなわち、私自身がそうしたように、十字架の横木に手を延ばして、釘づけにされることになるだろう。そして、これも格言に言われているように、人に帯をしめてもらい、行きたくない所へ連れてゆかれることになるだろう」と、そのようにイエスは言われます(井上良雄)。

 

したがって、それに続けて、次の19節で、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」と、言われています。すなわちイエスは、ペテロがイエスの羊たちを飼うことによって、今後どういう道を歩まねばならないかを、示しているのです。すなわち、ペテロがこれから期待しなければならないのは、名誉でも名声でもなく、ただイエス御自身が迎えられたのと同じ十字架での死であろうということを、語っているのです。――このことを告げた上で、イエスは最後に、「わたしに従ってきなさい」と、ペテロに対して言われます。

 

「わたしに従いなさい」(19節)。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)。

 

これがペテロに語られた、ヨハネ福音書におけるイエスの最後の言葉です。他の弟子たちがどうなるかを気にする必要はない。あなたはただ、わたしの言葉に従って、わたしから与えられた使命に忠実に生きればそれでよいのだ、とイエスは言われるのです。

 

ヨハネ21章の物語はペテロの殉教への召命や愛弟子の証言の賞讃で始まっているのではなく、イエスの恵みの授与の話で始まっています。イエスは舟に乗っている弟子達の全てに贈り物を与えました。殉教者のペテロ、証人の愛弟子、見てから信じたいと望んだトマスとナタナエル(1:47-50,20:24-29)、ゼベダイの子ら、彼らが弟子であること以外福音書に何の記録もない名前の分からない弟子達、これらすべての人びとはその弟子としての道も異なった形を取ったでしょうが、彼らすべてにイエスは奇跡的大漁を与え、浜辺の朝食を用意してやったのです。愛のために自分の命を捨てようとする人達も、イエスの愛の証言をするには最も小さな場所と見える所で日々格闘する人々も、皆、イエスの賜物を受けているのです。ヨハネ21章が語ることによれば、信仰共同体の弟子の務めはイエスによる神の恵みの確認と祝福で始まります。信仰生活におけるその恵みの体現が忠実な弟子の資格の尺度であると言われているのであります。生ける主イエスとの出会いによる神の恵みを受けて、その応答として私たちの信仰の歩みが生まれるのです。多く愛された者は多く愛すると言われているようにです。

 

 

このイエスの言葉をもって、ヨハネ福音書21章はしめくくられ、その結末に到達しました。しかしそれは同時にまた、私たちの服従の歩みの新しい始まりでもあります。終わりはまた新しい始まりなのです。ここで私たちはもう一度、私たちの信仰の歩みの出発点に立たしめられるのであります。そしこここから先は、もはや文字をもってではなく、私たちのからだ、手と足とをもって書き続けられて行くべきものであります(森野善右衛門)。

 

主がそのように私たちを導いてくださいますように!

   

祈ります。

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

神さま、今日は、私たちの信仰者としての歩みが、生きたイエスとの出会いと人格的な関係において支えられていることを、イエスとペテロとの対話を通して教えられ、感謝いたします。

神さま、私たちが、日々イエスとの対話を通してあなたに生かされて生きることができますようにお導きください。

私たちの日々生きています現実の社会は、幸いとは言えません。破れに満ちています。皆が共に助け合って生きるのではなく、他者を蹴落として自分さえよければという人の思いが勝っています。その中で苦しみ、悲しみ、傷つく人も多くいます。

神さま、高ぶる者を打ち砕き、あなたの前にすべての人が大切な存在であることを知らしめてください。私たちの中に神の国が到来しますように。苦しみ、悲しみ、傷ついている人々が癒されますように。

私たちもそのために働くことができますように、お導き下さい。

今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

新しい一週の全ての人の歩みを支えてください。

この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。

                      アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   482(わが主イエス いとうるわし)

https://www.youtube.com/watch?v=n7ALOQ85bqg

⑪ 献  金

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。