なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

棕櫚の主日説教 「十字架の言葉」 Ⅰコリント1:18-25

4月13(日)棕櫚の主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃 美 歌    149(わがたまたたえよ)

 https://www.youtube.com/watch?v=olWsf8Ja_-0

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編118編19-29節(讃美歌交読文130頁)

⑥ 聖  書   コリントの信徒への手紙一1章18-25節(新約300頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    309(あがないの主に)

https://www.youtube.com/watch?v=iGgXPT2w1kU

⑩ 説  教           北村慈郎牧師

 

今日は棕櫚の主日です。教会歴によれば、イエスは今週の金曜日に十字架につけられて殺されて死んだことになります。歴史的な出来事としてみれば、イエスの十字架は、前にも申し上げましたようにユダヤ人の大祭司らの策謀によってローマ総督ピラトがイエスの十字架刑に処したということになります。

 

しかし、このイエスの十字架には、ただ単に歴史的な事件・出来事ということだけではなく、信仰的な意味が込められているのであります。そのイエスの十字架を、パウロはこのように語っているのです。

 

先程司会者に読んでいただいたコリントの信徒への手紙1章18節で、パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と言っています。

 

「十字架の言葉」の「言葉」の原語は「ホ・ロゴス」です。この「ロゴス」は、ヨハネ福音書の冒頭にあるロゴス讃歌の「ロゴス」と同じ語です。ヨハネ福音書のロゴス讃歌では、1章4節で「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と言われています。ということは、イエスの十字架は、私たち人間を生かす「命」であり、「人間を照らす光」であるということになります。

 

ですから、パウロは、「十字架の言葉は、(イエスを信じないで)滅んでいく者にとっては愚かなものですが、(イエスを信じている)わたしたち救われる者には神の力です」と言っているのではないかと思います。

 

では、イエスの十字架が神の力であるとすれば、それはどのような力なのでしょうか。

 

バルトの『一日一章』の中の受難日に当たるところは、「磔刑」という表題がついています。そして日課のバルトの言葉の前に、「受難の聖金曜日の祈り」、「聖金曜日Ⅰ」、「聖金曜日Ⅱ」という表題があり、それぞれバルトの言葉が記されています。その「受難の聖金曜日の祈り」のバルトの言葉には、イエスの十字架が神の力であることがどういうことなのかが、わかり易く記されています。そこでこのバルトの「受難の聖金曜日の祈り」に即して、何故イエスの十字架が神の力であるのかをお話ししたいと思います。

 

エスの十字架が歴史的な出来事と共に神の御業であるということは、福音書の受難物語の中では「引き渡し」という言葉によって示されています。福音書のイエスの受難物語の中で、イスカリオテのユダが大祭司らにイエスを引き渡し、大祭司らはピラトに引き渡し、イエスが十字架に架けられて殺されて死にましたが、この一連の「引き渡し」には「神の引き渡し」が隠されていると福音書は言っているのです。ですから、イエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダの裏切りは、銀貨30枚でイエスを大祭司らに売り渡したのですが、イエスの十字架が神の御業であるとすれば、ユダは間接的にその神の御業に仕えたことになります。そのようなイスカリオテのユダの裏切りの解釈もあるのです。

 

では、そのような「神の引き渡し」によって起こった十字架というイエスの受難と死において、神は私たち全ての人間に対して一体何をして下さったと言うのでしょうか。

 

バルトはこの「受難の聖金曜日の祈り」の最初に、「主なる神様! この日、世界と私たち全てに関わるあなたの優れた強い御心をあなたがいかに果たされたかを、私たちは思います」と祈っているのであります。つまり、イエスの十字架は、「世界と私たち全てに関わるあなたの優れた強い御心をあなたがいかに果たされたか」を示す出来事であると言うのです。続けてバルトはこのように祈っています。「あなたは我らの主イエス・キリスト、愛する御子を、私たちが自由になるようにと捕らわれの身とさせ、私たちが無罪になるようにと御子に罪の宣告を受けさせ、私たちが喜ぶようにと苦しめさせ、永遠の命を許されるようにと死に渡されました」。

 

バルトは、神がイエスの十字架において私たち全てにして下さった神の御心としての行為には四つの目的があると言うのです。

 

一つは、「私たちが自由になる」ことです。そのために神はイエスを捕らわれの身にさせたと言うのです。この「自由」とは、自分勝手に何でもできるということではもちろんありません。私たち全ての人間が支配されている自我の支配からの自由ということではないかと思います。私たちの自我は自己中心的ですから生来、神の命令を蛇の誘惑に負けて破ったアダムとイブのように、神の似姿に造られたにもかかわらず的外れな生き方をする人間なのです。それを、聖書は「罪と死の支配」と言っているのです。「あなた(神)は我らの主イエス・キリスト、愛する御子を、私たちが自由になるようにと捕らわれの身とさせ」と、>ここで言われている自由とは、私たちが生来支配されている「罪と死の支配」からの自由を意味しています。これが、イエスの十字架において示されている神の御心の一つ目の意味です。

 

二つ目は、「私たちが無罪になる」ためです。「(神は)私たちが無罪になるようにと御子に罪の宣告を受けさせ」たというのです。罪を犯した者は裁判を受けて罪の宣告を受けなければなりません。本来罪を犯しているのは私たちですから、私たちが裁判を受けて罪の宣告を受けなければならいの訳です。裁かれなければならないのは私たちなのです。しかし、神は私たちの身代わりにイエスを裁判にかけて罪の宣告を受けさせたというのです。イエスが罪の宣告を受けることによって、私たちは無罪になると言うのです。これが、イエスの十字架において示されている神の御心の二つ目の意味です。

 

三つめは、「私たちが喜ぶ」ためです。「(神は)私たちが喜ぶようにと(御子イエスを)苦しめさせ」たというのです。今のような戦争があり、貧困差別があり、格差があって、残念ながら平和な社会とは言えない状況において、私たち全ての人間が喜んで生きることはできません。全ての人が喜んで生きていける世界とは、「義と平和と喜び」にみちた神が支配する神の国ではないでしょうか。神は、私たちが神の国の住民として喜んで生きて行けるように、イエスを苦しめさせたというのです。これが、イエスの十字架において示されている神の御心の三つ目の意味です。

 

四つ目は、「私たちに永遠の命を許される」ためです。「(神は私たちに)永遠の命を許されるようにと(御子イエスを)死に渡されました」と言うのです。イエスの十字架は、その十字架を通って復活の命である永遠の命へと私たちを導くという意味で、神は、イエスを十字架に引き渡したのは、「私たちに永遠の命を許される」ためだと言っているのではないかと思います。

ローマの信徒への手紙6章23節に「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」と言われています。「罪と死の支配からの自由」は、神の賜物で、それは「わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」であると言うのです。

 

「永遠の命は、神と共にある、神の明るい光に生かされた、神ご自身の命による養われ味付けされた人の命であります。永遠の命は、神への奉仕に、それゆえただちに他者への、同胞への奉仕に移された人の命です。それゆえ、人の生を許された者にもたしかに最もよく仕えたことになります。/永遠の命は強くて、もはや弱くない、喜ばしくて、もはや悲しくない、真の、もはや偽りのない命です。永遠の命は神から来て、神に維持されるので、破壊できない人の命です。すなわち、それは死という自然の終りを越えた命であり、今はもはや死であり得ずそのはずもなく、変わることのない命であります」(バルト)。

 

このようにイエスを十字架に引き渡すことによって、神は、私たちすべての人間を「罪と死の支配」から解放(自由)してくださり、神の賜物としての「永遠の命」を生きるようにしてくださっているのだと言うのです。ですから、それに続くバルトの「受難の聖金曜日の祈り」にはこのように記されているのです。

 

「私たちは自らは滅びるしかありますまい。私たちは誰一人として、このような救いに相応しくありませんでした。しかしあなた(神)は理解し難い厳かな憐れみのうちに私たちの罪と悲惨とに関わってくださり、私たちに大いなることをしてくださいました。私たちがこの大いなることを悟り、把握し、お認めする以外に何をもってしてお礼申し上げたらよいでしょうか」(バルト)。

 

「生きて働かれる救い主が、私たちのために苦しまれ、十字架にかけられ、死んで、葬られて、だが復活なさった方が、今自ら私たちの只中に歩み入り、私たちの心と良心に語りかけ、私たちの心をあなたの愛のために開き、愛に全く委ねて、愛によって愛のみに生きるよう、導いてくださる。これ以外のことがどうしてありましょうか」(バルト)。

 

そして「受難の聖金曜日の祈り」の最後は「このことがあなたの聖霊の力の内にありますように、お願いいたします。心からの恭順と、全幅の信頼の内にあって。アーメン。」で終わっています。

 

このようなイエスの十字架における神の御業を信じたイエスの弟子たちによって誕生した最初期の教会を迫害していたパウロは、ダマスコ途上で復活のイエスと出会って教会の迫害者から異邦人世界にイエスの福音を宣べ伝えて、教会を建設する人になりました。そのパウロが、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と語っているのです。

 

そして「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人より強いからです」(第一コリント書1:22-25)と言っているのです。

 

最初に申し上げましたように、今日は棕櫚の主日です。教会歴では今週の金曜日にイエスは十字架につけられて殺されて死にます。そのイエスの十字架の出来事が私たちすべての人間にとっての神の憐れみの出来事であることを想い起すことができれば幸いに思います。

 

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」

 

祈ります。

 

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

今日は棕櫚の主日です。教会歴によれば、今週の金曜日にイエスは十字架につけられて殺されました。

神さま、あなたは御子イエスを十字架へと引き渡し、私たちを罪の支配から解放して下さり、イエスと繋がっていることによってあなたの導きの下に生きる者としてくださいました。心から感謝いたします。

み心ならば、神の力である十字架の言葉に堅く立つことができますようにお導きください。

神さま、どうか今戦争や貧困・差別、また自然災害や病気によって苦しむ人々を支え、助けて下さい。

世界が平和な世界になりますように!

今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。

                                   アーメン。

 讃 美 歌  303(丘の上の主の十字架)

https://www.youtube.com/watch?v=QEwj2JV7ddY

⑪ 献  金

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。