なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

3月9(日)受難節第1主日礼拝説教「試練と誘惑」ヤコブ1:12-18,

3月9(日)受難節第1主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃 美 歌 12(とうときわが神よ)

https://www.youtube.com/watch?v=NcaGAuyW7Tg

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編91編1-16節(讃美歌交読文101頁)

⑥ 聖  書   ヤコブの手紙1章12-18節(新約421頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    296(いのちのいのちよ)

https://www.youtube.com/watch?v=YXISZLWe1dU

  •  説  教   「試練と誘惑」    北村慈郎牧師

 

前回でヨハネによる福音書からの説教が終わりましたので、予告通り4月20日(日)のイースターまでは聖書日課使徒書の聖書箇所から説教をしていきたいと思います。

 

今日は教会歴では受難節第一主日で、この日の聖書日課使徒書はヤコブの手紙1章12-18節です。この箇所の新共同訳の表題にありますように、このヤコブの手紙の箇所は「試練と誘惑」について記されています。

 

この日の聖書日課福音書の個所は、マタイによる福音書4章1-11節で、イエスの荒野の誘惑の箇所です。イエスの受難と十字架を思い起こす受難節の第一主日において、イエスの受難と十字架の出来事を思い起こす時に第一に考えられることは、このイエスの受難と十字架の出来事が、イエスにとっては「試練と誘惑」の時でもあったということを物語っているということなのかも知れません。

 

エスは弟子たちに「主の祈り」を教えて、この「主の祈りを」祈りつつ、弟子たちがこの祈りに相応しく生きるようにと求められました。主の祈りの第6祈願は、「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」です。

 

最初に神が創造された人間アダムとイブ以来綿々と続いて来た人類の歴史は、的を外した歴史で、その最後は死と滅びに極まるもののように思われました。イエスの生まれたローマ帝国支配下にあったユダヤでも、人間の営みの様相は、罪と死と滅びに極まる方向にあったという点では、それまでの人類の歴史と全く同じように見えました。

 

聖書では、神は、神の似姿に造った人間が、神の似姿と相反して生きるのを見て、悲しみをこらえていました。あたかも自分が絶対者であるかの如く自己中心的に生きる人間、隣人を互いに愛し合う仲間ではなく、自分の自己実現のために利用していく対象としてしか見ない人間、互いに競い合い、他者を踏み倒してでも自分が一歩でも前に出ようとする人間。そのような自己中心的な人間を神は創造されたのではありません。

 

人間が神の似姿に造られたということ、しかもアダムと共に交わりの相手としてイブも造られたということは、人間が互いに愛し合うことによって、人間は見えない神の愛を生き、そのことによって神の愛を見えるように表現するためでした。それが「神に似姿」に造られた人間の本来の姿です。しかし、人間は神によって創造されたにも拘わらず、神の思いに反して生きるようになってしまったのです。

 

創世記6章では、ノアの物語の中で神は洪水をもたらしますが、神が何故そうされたのかについてこう記されています。

 

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造られたことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。/「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。しかし、ノアは主の好意を得た」(創世記6:5-8)とあります。

 

この言葉は、気候危機が叫ばれて、人類だけでなく動植物や自然も滅亡の危機を迎えている現代人である私たちに向かって語りかけられているかのように思われます。

 

私は、若い時に、このノアの物語の中に記されている洪水物語の中の神の後悔について読んだ時に「神は、地上に人間を造ったことを後悔し、心痛めているのか」と、大きな衝撃を受けたことを思い出します。

 

エスは、受難と十字架において、そのような神が創造されたことを後悔し、心痛めておられる人間と真正面から対決したのではないかと思います。イエスがとった人間再生の道は、神の思いに反して生きる的外れた人間の自己中心性の罪を一身に背負って、十字架にかけられ、殺されて死ぬことによって、神に人間の執り成しをすることにあったのではないかと思います。

 

前回ヨハネによる福音書21章15節以下の復活したイエスとペテロの対話を学びましたが、その対話の中で、イエスは三度ペテロに「あなたはわたしを愛するか」と問いかけ、ペテロは三度「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えていました。これはイエスの十字架を前にして、ペテロが三度イエスを否んだことが前提になっています。

 

エスの十字架は、ペテロにとっては、自分が如何に自己中心的な人間であるかを明白に突き付けられた出来事だったと思われます。この復活したイエスとペテロの対話は、ペテロにとっては、イエスを裏切った自己中心的な己との決別であり、ペテロ自身の人間としての再生の出来事だったに違いありません。

 

ペテロは罪を犯しましたが、復活したイエスとの出会いと対話によって、罪人ではありますが、罪赦された罪人として、新しく生き直す道をイエスによって与えられたのだと思います。そういう意味で、ペテロはイエスによって新しい人間として再創造されて、イエスを中心とした人間集団である教会の担い手の一人として、他の弟子たちと共に、またイエスを信じて歩みを起こす人々と共に、義と平和と喜びに生きる人間集団を全世界に広げていくために、自分の人生を捧げたのではないでしょうか。

 

先ほど司会者に読んでいただいたヤコブの手紙の最後の所に、「御父(神)は御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです」(1:18)と言われていました。

 

ここに「御父(神)は御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」と言われていますが、この「真理の言葉」とは「イエス・キリストにおける救いの福音」を意味すると言われています。また、<《生んでくださいました》の「生む」(アポキュエイン)とは、元来女性が子を産むことを指すが、ここでは神による創造ないし再創造(救い)を示している>と言われています。

 

ですから、私たちキリスト者は、ヤコブの手紙の著者によれば、イエス・キリストにおける救いの福音によって神によって再創造された者ということになります。同じことをエフェソの手紙ではこのように言われています。<(あなたがたは、)キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいて正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(4:21-24)

 

このようなイエス・キリストに在る新しい人として、私たちキリスト者がこの世の現実を生きて行く時に、ここでヤコブの手紙の著者は「試練と誘惑」を避けるわけにはいかないので、消極的にではなく、積極的に対処するようにと言っているのです。

 

試練は、私たちの外から襲う圧力で、私たちの信仰を不信仰に変えようとする試みです。日本の社会は同調主義が強いので、場合によっては家族・親族が、また、友人・知人が圧力となって、私たちの信仰を否定し、信仰は持たないようにと迫ってくるようなことがあるかも知れません。

 

私は1970年代後半から1990年代前半まで名古屋の教会の牧師をしていましたが、当時キリスト教主義の女学校から中高生が教会に来ていましたが、親から礼拝に行くのは良いが、洗礼は受けないようにと言われているという子が結構いました。

 

また、1960年代後半ごろからの日本社会の高度経済成長時代に企業に就職した人の中には、企業社会の中で正義を貫くことの難しさを感じて、自分がキリスト者であることを隠して生きたという人もいました。

 

近代以降の資本制社会では、社会の中心は経済活動になっています。この経済活動の中心に居座っているのは資本=お金です。お金が神のような社会の中で、イエスによって再創造された新しい人として生きる者には、そもそも試練は必然です。

 

ヤコブの手紙の著者は、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と記しています。この「幸いです」は、福音書でイエスが「幸いなるかな」と語られた「幸い」と同じ言葉です。ルカ版では、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」(ルカ6:20-23節)と記されています。

 

ヤコブの手紙の著者は、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」に続けて、「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束されている命の冠をいただくからです」と言っているのです。

 

誘惑は、試練が私たちの外側から迫って来るのに対して、私たちの内側からイエスによって新しい人となった私たちを、イエスを信じる以前の古い人としての私たちに戻す圧力です。

 

ヤコブの手紙の著者は、このように語っています。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりはなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(1:13,14)

 

エスが神の真実によって生きるのを、快く思わない人々が彼に圧迫を加え、ついには亡き者にしようとしました。そのことはイエスにとっては試練でしたが、イエスはその試練を耐え抜いて、苦しみを受け、十字架の人となりました。そして復活して死に打ち勝ったのです。その復活したイエスが、霊において今も私たちと共にいて下さるのです。また、イエスは荒れ野の誘惑でサタンの誘惑に打ち勝たれた方であります。

 

その試練と誘惑に打ち勝ったイエスが弟子たちに、「自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい」と言われた時に、「命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:39)と言っているのであります。

 

「試練を耐え忍ぶ人は幸いで。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束されている命の冠をいただくからです」。

 

私たちは、試練と誘惑に打ち勝ったイエスに信頼して従い、隣人である他者と共に神に与えられた命を大切にして生きていきたいと思います。そのような私たちの歩みが、たとえ細やかなものであったとしても、この人間の自己中心性とその欲望のゆえに死と滅びに向かっているかに見えるこの世界に、義と平和と喜びの灯をともし続けていくことができれば、私たちにとってそれ以上の幸いはないのではないでしょうか。

 

そのためにも、私たちひとりひとりを、「自分の十字架を負って生きる」者へと、主が導いてくださいますように!

 

祈ります。

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

今日は受難節の第一主日です。

苦難を受け、十字架につかれたイエスが、試練と誘惑に打ち勝って、あなたの御心をありのままに生き、死なれた方であることを、改めて強く思わされました。

そして、その主イエスに従って、私たちも試練と誘惑に打ち勝って、あなたがお与えくださる真の命の冠を得たいと願います。

主よ、どうかそのように私たちをイエスの友として、イエスのチームの一員として生きることができるように導いてください。

神さま、高ぶる者を打ち砕き、あなたの前にすべての人が大切な存在であることを知らしめてください。私たちの中に神の国が到来しますように。苦しみ、悲しみ、傷ついている人々が癒されますように。

私たちもそのために働くことができますように、お導き下さい。

今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

新しい一週の全ての人の歩みを支えてください。

この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。

                      アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌  440(備えて祈れ)

https://www.youtube.com/watch?v=EhW8a-CrmMI

⑪ 献  金

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。