なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(7)

  「こころみ」マタイによる福音書4:1-11、2018年2月11日船越教会礼拝説教


旧約聖書創世記の2章、3章によりますと、神は、最初の人間、アダムとエバをお造りになり、エデンの

園に住まわせました。そして園に、あらゆるよい実のなる木をはえさせましたが、園の真ん中にある木の

実だけはふれても食べてもいけないとおっしゃいました。けれども、ふたりは、「それを食べると、目が

開け、神のように善悪を知るものとなる」と、へびにそそのかされてその木の実を取って食べてしまいま

した。これが最初の人間がおかした有名な罪の物語です。神のようになりたいという傲慢とそこから来る

不従順の罪が、人間を神の命から引き離したというのです。


・確かに、へびがいなければ、アダムとエバは罪をおかさなかったでしょう。けれども、へびが誘惑して

も、もしふたりが、「いいえ、わたしたちは神さまとの約束を破ることはできません」といって、誘惑に

まけなかったとしたらどうでしょう。ふたりは神さまに対する正直さやまっすぐな心を、自分の言葉と態

度で立派に表すことができたのではないでしょうか。そうすれば神さまはきっととてもうれしく思われた

でしょう。


・このように、してはならないことをやらせようとすすめることを「誘惑する」と言います。残念なこと

にわたしたちのまわりにも、「だいじょうぶ。だれも見ていないから、取ってしまいな」とか、「うそを

ついても平気だよ。相手のことなんか気にしなくてもいいさ」などの誘惑する声があります。


パウロは「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及ん

だのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5:12)と言っています。


・わたしたちが、日常生活の中で誘惑に負けて、犯してしまう罪も、さまざまな不幸な結果を引き起こ

し、人間性を傷つけていきます。そして計り知れない多くの影響を、自分だけでなくまわりにも及ぼしま

す。そこに待ち受けているものは、多くの苦しみと死です。


・人が誘惑に負けて悪しき行為を犯してしまったことによって、その人の中にだけでなく、周りの人も、

また、苦しみと死の力の抑圧を受けざるをえないのです。罪を支払う報酬は死である、とパウロは言って

いますが、まさに死の力に捕らえれてしまうのです。


ベトナム戦争に従軍したアメリカ兵が帰還して精神が犯されるということが、ベトナム戦争後のアメリ

カ社会に暗い影を投げかけたと言われています。人殺しという極限の場である戦場を経験してしまったと

き、人は何事も無かったかのごとく日常の生活に戻れるでしょうか。正義のための戦争など無いにも拘ら

ず、国家は正義の理由をつけて戦争を遂行するときに、一市民としての私たちがそれに逆らい得ないで、

従ってしまうとすれば、戦争による悲劇を繰り返してしまうのではないでしょうか。


・また、安保村や原子力ムラいう利権に群がる人たちによってすすめられている政策によって、沖縄の

人々や福島の人々がどれだけ苦しまなければならないか、本当に恐ろしいことです。


・誘惑にまけるということは、神と隣人の前に一人の人間として神のみ心にふさわしく生きることからは

ずれていくことを意味します。そのことによって起こる結果が苦しみと死であるということを、聖書はわ

たしたちに告げているのです。


・けれども、わたしたちは誘惑・試練に弱い者です。


・そういうわたしたちに、今日の聖書の箇所は大きな勇気を与えてくれます。イエスもまたわたしたちと

同じように誘惑・試練にあわれ、それに打ち勝たれたからです。


・イエスの荒れ野での誘惑・試練は、人間が経験する典型的なものばかりでした。


・第一番目の誘惑・試練は、イエスが空腹を覚えられていたとき、神の子としての力を用いて、石をパン

に変え、自分の飢えを満たしてはどうだというものでした。


・それは、肉体的な欲望や弱さからくる誘惑・試練です。わたしたちは、本来そのために用いてはならな

い自らに与えられた力や特権を、自分の欲望を満たすために使ってみたいと考えます。先ほど触れました

安保村や原子力ムラという利権に群がる人たちは、政治権力を持っている人や大企業の経営者や学者とい

う特権を持っている人たちが、その力をみんなのために使うのではなく、自分たちの利益のために利用し

ているのです。


・イエスはこの第一の誘惑・試練に対して、<人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出る一

つ一つの言葉で生きる>(マタイ4:4,申命記8:3LXX)という申命記の言葉で答えて、その誘惑・試練を退

けます。イエスは、神のようになって石をパンに変える奇跡を退け、<すべてを神に委ねる道を選びま

す。こうして彼は自らのために神の力を利用することを退けます。そのことはいずれ十字架への道となっ

て行くのであります>。


申命記17章14節以下に「王に関する規定」が記されています。この箇所が昨日2月10日のローズンゲン

という日々の聖句の聖書箇所になっていて、読み直す機会が与えられました。<あなたが、あなたの神、

主が与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、わた

しを治める王を立てよう」と言うならば、必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。・・・王

は大勢の妻をめとって、心を迷わせてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。彼が王位についた

ならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生き

ている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守ら

なければならない。そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、その戒めから右にも左にもそれるこ

となく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる>(申命記17:14-20)。このよう

に記されているのですね。


・イエスの第一の誘惑・試練に対する答えである<人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出

る一つ一つの言葉で生きる>が、王にも求められているのです。安倍首相は、日本の国の首相として、主

権在民、平和主義、基本的人権を三大原理とする日本国憲法に従わなければなりません。しかし彼は首相

という政治権力を利用して、アメリカと一体となって戦争のできる国造りを進めています。また、安倍首

相は、戦争と共に人間の命と生活を根本から奪う原発事故の恐ろしさを直視することなく、原発の再稼働

に踏み切って、電力会社や大企業の方を優遇して、「国民」一人一人の命と生活を大切にする姿勢を持ち

合わせていないかのようです。<人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出る一つ一つの言葉

で生きる>。この言葉を安倍首相にも聞いてもらいたいものです。


・第二の誘惑・試練は、神殿から飛び降りて神が守ってくれるか実際に試してみてはどうかというもので

す。これは具体的には目に見える形で神の愛を確かめたいという誘惑です。もし、目に見えるしるしがな

ければ、神への信頼を失うことにもつながります。この第二の誘惑・試練は、イエスが「神の子なら、飛

び降りたらどうだ」です。


・この悪魔の誘いは、マタイの場合は、特に十字架のイエスに対する嘲笑の言葉と結び付けて考えなけれ

ばなしません。マタイによる福音書の27章39節から43節には、十字架につけられたイエスに向かって、そ

の場所を通った通行人や祭司長たちは「神の子なら」下りて来いと罵っています。


・<そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日

に建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。同じように、祭司長たち

も律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人を救ったのに、自分は救えない。

イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じでやろう。神に頼っているが、神

の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」。>


・ここでもイエスは期待される奇跡を起こすことなく、むしろ天使の助けを拒み(4:6,26:53)、苦難の道

を最後までたどります。マタイ福音書では、十字架が悪魔への最後の答になっているのです。


・悪魔との対決は、第三の誘惑・試練で頂点に達します。悪魔はこの世界の支配権を与えるという条件

で、彼に土下座して礼拝することを要求します。サタンにひれ伏すことによって、この世の栄華を、手中

に収めてはどうかと。


・これは神を無視して自分の繁栄を求めようという物質的富への誘惑・試練です。<イエスは言われまし

た。「退け、サタン。/『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある>(4:10)

と。


・イエスは、これらの誘惑・試練を、神の言葉を引用しながら、すべて退けられます。そして「退け、サ

タン」と仰せられ、誘う者・試みる者を一蹴されました。<そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使た

ちが来てイエスに仕えた>(4:11)というのです。


・このイエスの荒れ野の誘惑・試みの物語は、私たちに何を語っているのでしょうか。


・ある注解者は、初代教会の中でこのイエスの荒れ野の誘惑・試みの物語がつくられた背景を想像して、

二つのことを指摘しています。一つは、この物語によって、イエスを信じる群れとしての教会は、自らを

民族的現世的メシアを期待するユダヤ教とは違うことを言い表したというのです。この荒れ野の誘惑・試

練の物語におけるイエスは、民族的現世的メシアではありません。もう一つは、熱心党を中心にして力を

もって神の国を実現しようとした70年戦後のユダヤ戦争に最初期の教会が同調しなかった理由を、この物

語で弁証しようとしたのではないかというのです。


・イエスを信じる群れとしてのわたしたちは、この荒れ野の誘惑・試練に勝ったイエスの兄弟姉妹団であ

るのではないでしょうか。.僖鵑琉戮法互に愛し合いなさいという神の言葉を無にしないこと。⊆分

に対する神の助けがあるかどかを試みないこと。0魔にひれ伏してこの世の栄華を手に入れるなどと考

えないこと。これらの誘惑・試みに打ち勝った「神の子」イエスに連なる、イエスを長子とする兄弟姉妹

団である教会こそが新しいイスラエルなのだと言うのでしょう。神の信じ、神の契約の民として他者の命

と生活を奪うことなく、互に生かし合う群れとして生きることへと、私たちはイエスによって招かれてい

ることを、このイエスの荒野の誘惑・試練の物語によってもう一度確認したいと思います。