昨日伊豆の宇佐美に行って来た。6人の牧師と一晩話をして、今朝私一人だけ失礼して、電車で帰ってきた。往きは2台の自動車に5人が分乗して行った。宇佐美にいる牧師を加えて6人である。私は自動車の運転ができないので、先輩の牧師の運転する車に乗せてもらった。
宇佐美の町は伊豆半島の東海岸で、伊東の手前にある。海岸線に道路が走っていて、その道路から海と反対側は急傾斜のところが多い。修善寺に通じる道路もあって、修善寺までは車で30分ほどとのことだった。山側の相当高いところに別荘地がある。温泉があり、夏には海水浴もできるので、季節によっては観光客も多いのだろう。昨日の宇佐美は閑散とした感じだった。
今朝6時半ごろ宿を出て、宇佐美からJRで9時前に家に着いた。その間電車の中で、読みかけていた杉村昌昭の『分裂共生論~グローバル社会を越えて~』(2005年、人文書院)を読み終えた。
杉村は、ジャン=クレ・マルタンがファン・ゴッホ論『物のまなざし』の中で、ゴッホの初期の作品「馬鈴薯の入った篭のある静物」についての解説を、自分の「分裂共生」の光景をもっともよく表象していると思われる文章として引用している。以下がその引用文である。
「ファン・ゴッホの描く篭のなかの馬鈴薯は、互いに触れ合い、ぶつかりあいながらも一体化はせず、共鳴しながら表層において意思疎通する。それは相互的な作用、双方からの親密な動きであり、そのようにして“物の物としての生命”が共振的な動力として顕現するところとなるのだ。(・・・)そして、ひとつひとつの芋が影響をおよぼし、ほかの芋と結び付いていくその勢いが、ついに籠をデフォルメしていくのである」。
一と多の関係性は、一によって多を抑圧する「統合共生(=強制)」ではなく、多が多としてありながら一を創り出す「分裂共生」が好ましいことは間違いない。
アメリカの多を抑圧する統合強制のグローバリズムに対して、分裂共生のオルター・グローバリゼーションを杉村は主張している。
イエスの周りに生まれた人の群れも、分裂共生に近いのかも知れないと、この杉村の本を読みながら、ふと思った。