神の命じる、食べてはならない善悪の木の実を食べてしまったアダムとイブは、食べてはならないという神の命令を破って何故食べたのかを神によって責められたとき、二人ともそれぞれアダムはイブに、イブは蛇に責任を転嫁して逃げました(創世記3章)。
自分が間違いを犯して責められたときに、他の人に責任をなすり付けて知らん顔をしている人のことを思い起こして見てください。随分冷酷な人だと思うでしょう。そういう人を自分の妻や夫にもったならばどうでしょうか。夫婦の関係は二人にとって祝福ではなく呪いとなってしまうのではないでしょうか。そのような人の中にある冷酷さはどこからうまれたのだろうか、と問うことによって、自己中心的で神を差し置いて自分が神のようになる神への反逆が心を占めているということに、この物語の記者である古代ヘブル人は気づいたのではないでしょうか。
神を恐れつつも神への密かな反抗が、人の心をむしばんでいき、遂にその最愛の妻「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と喜んで自分のパートナーとして受入れた妻を、神の前に突っ放してしますのです。そうして、人は自ら招いて孤独に陥ってしまうのです。
創世記3章では、それぞれ責任転嫁をして自己弁護し、自己正当化をはかって、神による責任追及を逃れたイブとアダムには、それぞれ苦しみが課せられたとあります。
女には出産の苦しみです。3:16「お前のはらみの苦しみを大きなものとする。/ お前は、苦しんで子を産む。/ お前は男を求め/ 彼はお前を支配する」。
男には労働の苦しみです。3:17「お前は女の声に従い/ 取って食べるなと命じた木から食べた。/ お前のゆえに、土は呪われるものとなった。/ お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。/ お前に対して/ 土と茨とあざみを生えいでさせる。/ 野の草を食べようとするお前に。/ お前は顔に汗を流してパンを得る。/ 土に返るまで。/ お前がそこから取られた土に。/ 塵にすぎないお前は塵に返る」。
産婦人科もなく、出産で命を落とす女が多かったであろう古代社会では、女にとって産む苦しみは負担であったに違いありません。神の命令を破り、責任転嫁をして自己弁護し、自己正当化をはかった女にとって、出産の苦しみは神に課せられた負荷と考えられたのでしょう。
男にとっては日々の労働です。これも古代社会です。生産性が低く、狩猟や漁業や農業や牧畜という第一次産業によって、しかも殆ど全くと言っていいくらい人手だけによる労働によって生計を立てなければならないのです。男にとって労働の厳しさは大変なものであったと思われます。その苦しみは男が神に逆らい、責任転嫁して自己弁護し、自己正当化をはかったために神に課せられた負荷と考えられたのでしょう。
人は生きる苦しみの中で、互いに結びついていくかわりに、かえって争いと反目へと歩んで行くのでしょうか。すべての人への問いかけです。