なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

臨界を越えると、

私たちには根強い自己弁護、自己正当化があるように思われます。私自身の中にもあります。

創世記3章の堕罪物語以降、一度神から離れた人は楽園より益々遠ざかります。罪と死に絡まれた人間は、人と人とが互いに協力してこそはじめてこの世を生き得るのに、人が人に逆らうという形での関係に投げ込まれてしまいます。

人は、いつまでも悪との戦いに、望みのない苦しみを味わわなければなりません。そして最後に待つものは、一様に「死」なのです。

楽園喪失物語のえぐる人間の現実はこのような罪と死の世界です。

聖書が示している人間の罪は、人間存在そのものにまつわる運命ではありません。運命なら、人間に直接の責任はないのです。しかし、罪は、罪を犯した人間の責任が問われます。ですから、人間の責任の問題は決してぼやかされません。

蛇の誘惑においてもわかりますように、神の命令に背く人間の行為には、一面誘惑に負けてしまう人間的な弱さとでもいうものがあります。しかしそれは単なる弱さではありません。イブもアダムも決して単なる弱さのゆえに罪を犯したのではなく、常に弱さに溺れることを自らに許し、自己弁護し、自己正当化をはかる歪んだエゴのゆえです。

深く己を神の前に悔い改めるのではなく、自己を弁護し正当化しようとする、自己に向けて曲がってしまった人の心が、如何なる惨憺たる罪悪行為にまで発展せねばならなかったかは、さらに引き続く創世記4章の「カインの兄弟殺し」の物語に示されています。

神から離れた人間の心は、砕かれた素直さを失って、石の如く固くなるのです。カインとアベルはアダムとイブの間に生まれた兄弟であり、それぞれ農夫と牧羊者でありました。カインは農作物の初物を、アベルは羊の初子を、神への供え物としましたが、神はアベルとその供え物を顧みられたが、カインのものは受けられませんでした。

カインはこれを見て、弟が祝福されたことを共に喜ぶどころか、怒ってその顔を伏せたといいます。神の差別の理由については、聖書の記者は何も語りません。神との間のことにどうしても納得がいかなければ、素直に神にうったえる、それが真の信頼関係というものでしょう。

ところが素直さを失ったカインは、神にではなく、何の罪もない弟に怒りをぶつけ、彼を野に誘って、どうにもならない心の鬱憤を、アベルを殺すことによって晴らしてしまいました。

不条理を問うことは必要ですが、不条理の鬱憤を他者に向けて八つ当たりするのはいかがなものでしょうか。カインとアベルの物語を読む度に、私はそのような想いに駆られます。