なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

信と不信

聖書の使信(メッセージ)癸

5月11日「第一のもの」(癸院法5月12日「自由は重荷か?」(癸)、5月16日「責任転嫁」(癸)、5月18日「臨界を越えると」(癸粥砲蓮以前教会の日曜礼拝で、聖書全体の流れを追って、一体聖書は私たちに何を語りかけているのか、をお話しました。「聖書の使信(メッセージ)」は、その日の私のお話の中からテーマと思えるものを抽出してまとめたものです。これを私のこのブログで続けてみたいと思います。時々時事的なテーマやその時感じたことを書く日もありますので、そのつもりで読んでいただけるとうれしいです。

創世記4章で弟アベルを殺害した兄カインは、その罪の責を負って地上の放浪者とならなければならなりませんでした。そのカインを、神は見捨てずに、なおも支え、やがてカインの子孫から都市建設者がでたといいます(創世記4:12-15,17当たりをお読みください)。

兄弟殺しの罪を犯したカインですが、その子孫がこの地球世界で生活することを神は許してくれました。そしてカインを復讐から守り、神の維持したもう秩序の中で、人間の文化が始まるのです。

しかし、カインの末裔は罪人の系譜ですが、殺されたアベルの代わりに、今一人の子セツが、アダム夫妻に与えられます。罪の系譜に対する神の恩恵の系譜、信仰の歩みがこのセツの子、エノスの時よりはじまります。その時から、人はヤーウエ(神)の名を呼びはじめたといいます(創世記4:26)。この罪と恩恵、不信と信の交錯が以後の人間の歴史なのです。

創世記世記3章から4章にかけての物語には、私達が日常経験しています悲惨な事件や、平和を求めながら争いを起こす私たち人間の現実が、何に起因しているのかが、物語られているように思われます。私たち人間の内面を鋭く抉ることによって、私たちと神との関係の歪み(神を持ち出さなくても、人間存在の本質的な歪みと言ってもよいでしょう)が人間同士の関係の歪みを生み出していることを、一つの物語によって見事に描いているのではないでしょうか。

私は創世記1章から11章を読む度に、現在のユダヤ人の先祖の古代ヘブル人の人間理解の深さに驚嘆させられます。

現代人である私たちは、技術の面においては古代人とは比べられないほど発展しているグローバルな社会環境に生活していますが、人間性の深さ、豊かさにおいては、古代人の方がはるかに優れているのではないかと思わされます。ネイティブのインディオの知恵や言葉を読むときなども、近代化を経た先進国の人間が失ってしまった、人間としての謙虚さ、他者を思う優しさ、命や死への素直な感覚、大地、風、太陽、月、動物、植物などの自然との共生の豊かさに感動させられます。

歴史の進行を元に戻すことはできませんが、過去から学び、未来に生かすことができるのは、私たちではないでしょうか。