聖書の使信(メッセージ)癸供
兄弟アベルを殺したカインの末裔は、堕落の一途をたどります。都市が建設され、社会が複雑になるに従って、ますます神の意に反することを人間はするようになります。人間は神の創造された世界の中で、神の似姿に造られ、神に代わってこの世界を治める特別な光栄と責任を託されます。けれども、人間は、与えられた自由意志をもって、喜んで神に応えて被造世界とともに神に栄光を帰するのではなく、神に逆らって神によって与えられた責任を負おうとしません。
「主(神)は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主(神)は言われた。
『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』」(創世記6:5-7)
神が後悔したことを語る創世記の記者の言葉は、私たちの心に響きます。20世紀以来戦争を繰り返し大量殺戮をしている現代の私たち人間にとりましても、創世記の記者が伝える神の後悔は、決して人事ではないでしょう。カインの末裔は、洪水によって滅ぼされてしまった人達で途絶えたわけではありません。ノアの家族から始める新しい人類の歴史におきましても、現在まで面々と続いているのです。私は、神に後悔をさせてしまうほどの人間の罪の現実に恐れおののかざるを得ません。
創世記の物語では、このような人間の罪に対する神の責任追及が、やがて大いなる審判としてあらわれます。それがノアの洪水物語です。創世記6章から9章にかけて記されています。洪水伝説そのものは聖書だけにあるわけではありません。聖書の周辺世界一帯には広く伝わっていたものです。けれども、聖書では、洪水は神が人間の罪のさばきとして下されたものであるとされています。
神がノアに言われた6章13節と17節の言葉に、そのことがはっきりと語られています。「すべて肉なるものを終らせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」。「見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべての肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える」。
秋田稔さんは、この神のさばきについてこのように記しています。「さばくということは、さばくに価するものとして責任を負わせることである。神は、人間を生かすも殺すもこちらの勝手というような、道具のようなものとしてではなく、責任を負うべき人格としてつくった。人間は責任を負うべき存在であり、だからこそ、神は人の責任を追求する。責任を負わせることの中には、実は責任を負うものとして目覚めさせようとする(神の)心がある」。
果たして現代の私たちは、この「神の心」をどのように受けとめているのでしょうか。私は、歴史の継続における神の忍耐と神の心について思い巡らしています。