なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

自由は重荷か?

アンビバレントという言葉があります。日本語に言い換えますと「両価的」とか「両義的」と訳されます。

日本語で「両価的」とか「両義的」といわれても、ことばを聞くだけではよく分からないでしょう。字を見ると分かり易いかも知れません。「両価的」の「両価」は価値が二つということです。「両義的」の「両義」とは意味が二つということです。ただ価値も意味も二つですが、その二つは相反する価値であり意味であるのです。ある辞書にはアンビバレントの項目に、「愛憎が並存する状態」と説明されています。「愛憎が並存する状態」と言われますと、多かれ少なかれ誰もが経験しているのではないでしょうか。特に二人の人間の間で性愛が問題になる場合、愛憎の激しいドラマが演じられることがあり得ます。

自由もまたアンビバレントな側面をもっていると言えるでしょう。旧約聖書創世記3章の「蛇の誘惑」の物語は、人間に与えられた自由が、機械仕掛けの人形のように定められた行為に従って機械的に動くだけではなく、応えることも、拒絶することも有り得る自由であることを示しています。

創世記2章が物語る人間創造物語における人間は、神によって創られ、孤独に生きるのではなく、他者とともに分かち合い、支え合って、神と他者に応えて生きる者として、私達人間が造られたことが語られています。けれども、創世記3章では、そのように神によって呼び出された、自らの与えられた自由をもって神の呼び出しに応えて生きる祝福を与えられながら、与えられた自由を全く逆に用いることによって、人間は神に反逆するのです。

もし神の機械仕掛けの人間だったら、そういうことは起こらなかったでしょう。自由という素晴らしい賜物を与えられていながら、その自由を生かせないで、逆に自由が人間の重荷になってしまのです。この自由の問題に、私たちの人間の問題が集約されていると言えるのではないでしょうか。

このところまた殺人事件が頻繁に報じられています。自由の乱用とも言える人間の限界を越えた殺人という行動に、私たちはどうして踏み越えてしまうのでしょうか。

与えられている人間の自由を生かして、神とも他者とも呼応関係の豊かさを生きていきたいと願います。