なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

第一のもの

初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)。聖書の最初の書き出しがこの言葉です。

私たちは何を「第一のもの」としているでしょうか。人間にとってその人が何を第一にしているかということは大変重要なことです。それによってその人の生き方が違ってくるといってよいでしょう。

「家内安全、商売繁盛」、「健康第一」、「自己中」、「富や名声」、「世間体」、「権力」、「趣味」、・・・・。いろいろです。けれども、何であれ自分の中に「第一のもの」をもっているということは、その人がどう生きていくかという方針や方向がはっきりするということでもあります。

人間としてどうかはともかくとして、「自己中」の人は迷いがないように見えます。深いところではどうなのかは分かりませんが、少なくても自分を中心にして何でも考え、行動するわけですから、その生き方が一貫しているとも言えます。一貫しているということは、その人なりに筋が通っているわけですから、迷いがないわけです。

自分にとって「第一のもの」は何か、「はじめ」は何かということは、すごく大切なことです。「はじめ」があるということは、「おわり」もあることになりますので、出発点から終局点に向かって歩いたり、走ったりすることができます。スタートとゴールがはっきりしていることによって、私たちは生き生きと走ることができるからです。スポーツ選手が生き生きと見えるのは、スタートとゴールがはっきりしているからでしょう。

宙ぶらりんの状態、どっちへ行っていいのか分からない、はじめも終わりも分からない中間の状態にあるというとき、私たちはどうしてよいのか分かりません。創世記1章2節に「地は混沌であって」とありますが、まさにそういう宙ぶらりんの状態とは混沌そのものです。自分の存在も意味も何がなんだか分からない。この状態は私たち人間にとっては大変きついことです。

関根正雄さんという旧約の学者はこのように言っています。「わたしは少し年をとりましたのでしょう。本当になんともならない空しさを時々感じるわけですが、どなたでも真面目に人生を生きようとしたならば大なり小なりそうだろうと思う。混沌としてあまりに意味がないというか、現代の世界を見ていて何ともならないでしょう。だから何もしないでいいということにはなりませんですね。その辺のところにわたくしの信仰の問題として、現代の実践の問題としての課題があると思うのです。」と。

 「初めに、神は天地を創造された」。 天地の創造者なる神をほめたたえる讃美、これは私たち人間の出発点だと、聖書の記者は語っているのではないでしょうか。