なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

新年の挨拶

新年の皆様の歩みの上に見えない方の導きをお祈り申し上げます。昨年のクリスマスに教会関係者の宛てた私信を新年の挨拶に代えさせていただきます。

さて心ある方々は現在の日本社会の状況に心痛めておられるのではないでしょうか。いじめによって自殺を強いられる子どもたちの存在は、このところ絶えることなく続いています。また虐待を受けて殺されていく小さな子どもたちも後を絶ちません。祝福されるべき命がこんなにも無残に絶たれなければならないのかと、怒りと悲しみに震えます。

しかし、現実はさらに悪い方へと向かっていくのではないかと不安で一杯です。1990年代初頭にバブル経済が崩壊してから、明治以来富国強兵・和魂洋才を掲げ時の政府と資本(財界)が結びついて上からの権力によって私たち日本の社会は動かされてきましたが、その矛盾のしわ寄せが現在さまざまな形で現れているものと思われます。上記の子どもたちの死(それは大人の問題そのものですが)もその一つです。

現政府主導の教育改革についても、歴代の文部行政の責任については一切触れずに、また現場の教師や子ども及び保護者の意見に真摯に耳を傾けることもなく、タウン・ミーティングなどという一種のやらせによって世論を誘導しようという意図が見え見えの政府の姿勢では、個々の子どもたちの命が大切にされる教育行政を期待することはできません。

先日「黙想と祈りの夕べ」(教会の集会の一つ)で期せずしてお二人の方から、いじめの問題に教会は何ができるのかという問いかけがありました。少人数ですが黙想と祈りの夕べに出ていた者は、この問いかけを身にしみて感じておりました。

そのときにも話が出ましたが、教会の日曜学校では命の大切さを教え、日曜学校の中ではいじめはないと思うが、教会の働きが広く学校社会やそれぞれの家族にまで影響を与えるほどの力は残念ながら十分とは言えない。イエスの福音がもつ解放と自由を広く社会に宣べ伝える責任が教会にはあるように思う。という意見がでました。

新しい年を迎えて、特に子どもたちの命について想いを馳せたいと思います。そのために子どもたちを祝福するイエスの言葉と、詩人まどみちをの「ぼくがここに」という詩をご紹介させていただきます。

「『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』 そして、(イエスは)子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」
(マルコによる福音書10章14-16節)

「ぼくがここに」 まどみちお
  ぼくがここにいるとき/ほかのどんなものも/ぼくにかさなって/ここにいることはできない//もしゾウがここにいるならば/そのゾウだけ/マメがいるならば/そのひとつぶのマメだけしか/ここにいることはできない//ああこのちきゅうのうえでは/こんなにだいじに/まもられているのだ/どんなものがどんなところに/いるときも//その「いること」こそが/なににもまして/すばらしいこととして