なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

富士山と神

久しぶりに朝犬の散歩に行った。近くに公園があって、朝犬を連れた人がその公園に結構多く来る。中には数人群れて、連れてきた犬同士を遊ばせながら、おしゃべりに熱中している人もいる。
私が連れて行く犬は弱虫なのか。幸いにも犬同士の仲間には入りたがらないので、私もおしゃべりに加わらないですむ。ありがたいことだ。孤独を愛する我が家の犬に感謝である。そういう私も犬を連れてすれ違う人には挨拶くらいはしている。

晴れた冬の朝には、犬の散歩コースの一角で、裾野近くまで白くなった富士山が遠くにはっきりと見える。今日も見ることができた。この富士を美しいと感じるのは、日本的な感性なのか、世界のどこの国の人でも感じることなのか、私にはわからない。
今日は美しい富士を見て、あの富士山、何時頃からあの場所にあるようになったのか、とふと思った。小学校で富士山が出来た時期を習ったようにも思うが、覚えていない。この日本に人が住みつきはじめたときには、既に富士山はあったのかもしれない。
古代から現代までの日本の歴史を富士山が眺めていたら、どう思っているのだろうかと想像しながら、真っ白くなった富士山をしばらく眺めていた。
昨日あった聖書研究で、私は、少なくとも聖書に基づく神信仰からは醒めた目で現実を直視する力が与えられるのではないかということを話した。聖書研究では言わなかったが、同時に、自分にとって好ましくない現実であったとしても、その現実を直視し批判的に乗り越えようとするエネルギーも神信仰から与えられるのではないかと思う。
聖書に基づく神信仰は、苦しい時の神頼みとは基本的に違うように思われるからである。

いつの間にか富士山を神に置き換えて、いろいろと頭の中で想像をめぐらしている自分がいた。