なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコによる福音書による説教-1、

 以前にもこのブログに、マルコ福音書による説教を部分的に数回掲載しました。現在私は船越教会の礼拝でマルコ福音書のテキストを順を追って説教しています。私が紅葉坂教会をこの3月末で退任した後、私の説教を懐かしがってくれる人もいらっしゃるようですので、時々このブログに私の説教原稿を掲載するようにしたいと思います。礼拝での説教は、文章とは違い、話し言葉でやさしくなっているようですが、ここでは原稿をそのまま載せさせてもらいます。通常のブログに比べ、分量が大分多くなってしまいます。その点はお許しください。
 
「道備え」イザヤ書40:1-11、マルコによる福音書 1:1-9、
 
 これから、マルコによる福音書を順にこの礼拝の説教のテキストにしたいと思います。そこで、今日は、バプテスマのヨハネについて描いていますマルコによる福音書の最初の部分、1:1-8から、私達への語りかけをご一緒に聞きたいと思います。
 
 この福音書の著者マルコがどんな人物であったのかは、よくわかりません。けれどもマルコが何を書きたかったのかははっきりとしています。それは、一節の福音書全体の表題として記されています。「神の子イエス・キリストの福音」です。学者の中には元来のマルコによる福音書には「神の子」はなかったのではないかという人もいます(田川健三)。
 「福音」とは、「よろこばしいしらせ」であります。この言葉は元来古代ギリシャでは、「戦勝を告げる使者のもたらすよい報告」、「その報告をもたらした使者に与えられる褒美」、「その際に神にささげられる供え物」も、福音と呼ばれたそうです。それが紀元後の時代になりますと、主に「皇帝礼拝」に関して用いられ、皇帝の誕生、成年、即位、命令等すべてが福音と呼ばれました。もちろん、その場合支配者であるロ-マの権力が有無をいわせず民衆にそう呼ばせたのであって、民衆の側から見れば、多くの場合皇帝の誕生や即位が「よろこばしいしらせ」ではありませんでした。むしろ彼ら彼女らにとって皇帝は搾取する者でしたから、皇帝の誕生や即位は「呪わしいしらせ」であったに違いありません(鈴木正久、『神の国のおとずれ』8-9頁)。
 イエスの復活後に誕生しました原始教会は、ロ-マ帝国の支配領域においては、圧倒的に皇帝礼拝との関連で用いられていました福音という言葉を、むりやり上からの力によってではなく、特別の意味を込めて自発的に、「神の福音」とか「キリストの福音」という風に用い始めました。同じ福音、つまりよろこばしいしらせであっても、権力によって強いられたものと自ら心からよろこんでそう呼ぶものとでは、その内容が全く違います。原始教会の人々にとっての「よろこばしいしらせ」は、ただイエスの出来事によってのみもたらされたものでありました。彼ら彼女らにとりまして、イエスの出来事は、彼ら彼女らを内側から、また外側から意識的・無意識的に束縛していました肉の力とこの世の力からの解放でありました。それが、マルコによる福音書の表題で語られています「イエス・キリストの福音」であります。これは排他的な言葉です。排他的といいますのは、他(ほか)には福音と呼ばれるに値する何物もないという意味が含まれているからです。皇帝が福音なのではありません。現代的に言えば、現在の日本のような物の豊かな消費社会が福音なのでもありません。
 これがマルコの主張であります。
 イエスの出来事が何故福音なのかということについては、マルコによる福音書全体が語ってくれるでしょう。ここではただ一つのことだけを確認しておきたいと思います。
 ホスキンスとうイギリスの新約聖書の学者が、「福音」という言葉の背景について述べていますが、彼によりますと、福音という言葉は、この言葉の系統からしますとギリシャ系統ですが、内容においては旧約聖書の系統を示唆しているといっています。つまり詩篇イザヤ書においては、「よき音信を告げる」という言葉が用いられています文脈では、この福音という言葉は、神の行動と密接な関連をもって用いられているのです。神の救いが近づいていること。神のあわれみ、罪の赦し、神の平安、神の義の現れ、主の喜びたもう年、貧しい者が義とされること、シオン(エルサレム)の山が世界の中心で、神の行動の起こる場所として示されています。そのような事柄に関連を持っているのであります。
 このような旧約聖書の背景を考えますと、福音は、神のあらわれ、神がご自身をわたしたちに示され、ご自身の真実を貫き、それに呼応してわたしたちが真実な者へと解放される道が開かれる、そのような神の行動であります。それ故に、福音はまがりものの喜びではなく、真実のよろこび、おとずれなのです。イエスの出来事において、わたしたちはそのような神の行動(生きて働き給う神)に出会うのです。
 マルコが「イエス・キリストの福音のはじめ」と福音書を書き出す時、彼はそのような、生きて働き給う神の行動に直面しつつ、筆をすすめていったと言えましょう。
 イエスの出来事が、わたしたちに向けられた神の行動であるといことを適切に示すものとして、バルメン宣言(ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言~1934年)の一節を引用したいと思います。
 「二、『彼は神に立てられ、汝らの知恵と、義と聖と救贖(あがない)となり給えり」(第一コリ1:30)
 イエス・キリストは、われわれの一切の罪の赦しについての神の呼び掛けであると同様に、またそれを同じ厳粛さをもって、彼はわれわれの全生活に対する神の力ある要求でもあります。彼によってわれわれは、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に充ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放が与えられる」
 ここにはイエス・キリストにおいてわれわれが何を聞くかが明白に言い表されています。「イエス・キリストはわれわれの一切の罪の赦しについての神の呼び掛けである」「同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼はわれわれの全生活に対する神の力ある要求でもある」。信仰をもって神の呼び掛けと神の力ある要求を聞く、その時にイエス・キリストは福音、よろこばしきしらせなのです。
 神の語りかけは、その都度新たに聞かれなければなりません。固定した教義を繰り返すだけではだめです。
 ですから、イエス・キリストの福音が語られるとき、そこに出来事が起こります。どのような出来事かと言えば、神が自らを開示することによって神が神となり、同時にそのような神に対峙する人間がそこに生起するのです。つまり、人間が人間となるのです。そのような出来事が現実に起きるのであります。それは、この世の秩序に亀裂を生ずる出来事であり、そこに新しい神の秩序が生じる出来事です。
 イエス・キリストが福音(よろこび)であるのは、イエス・キリストがただわれわれの欲望、願望を充足してくれることにあるのではありません。たとえわれわれの欲望や願望に逆らっていても、イエス・キリストがわれわれを真実なものとして立たせてくれるが故に、福音なのです。それ故、この世の秩序の中に、肉の欲望(支配)の下に、罪と死の中にどっぷりつかっている者にとって、イエス・キリストの福音は「無」であります。彼ら彼女らの論理、意識、感性にとって、福音は何物でもありません。その範疇の外側にある異物に過ぎないのです。まさに躓きの石そのものです。
 今日の社会においてイエス・キリストの福音が疎外されているという事実はむしろ当然でありまあす。今日の社会は、神を排除することによって、神に言葉を語らしめないことによって(沈黙の強要)成り立っているからです。神は死んだのでしょうか。否神は生きています。われわれが神が語るのを封じているのです。自分のことは自分でやっていく。神が顔を出す必要はない。これが今日の社会の自己義認であります。
 しかしながら、それにもかかわらず「無」に見える福音がなくてならないのです。しかも異物であるままで、それを中和したり、この世的に換骨奪胎してではなく、この世の秩序に亀裂を生じさせる本来の鋭さのままで、なくてならないのです。うすめられてしまったり、曲げられていしまった福音は、真のよろこびではありません。イエス・キリストにおいて、われわれは根本的にわれわれをさし貫く神の言葉に出会うのです。
 とにかくマルコは、イエス・キリストが福音としてわれわれの前に立っていることを語ります。そのイエス・キリストとわれわれを結び付けるものは何か。バプテスマのヨハネがそれを示しているのです。福音の始め、福音が福音として宣べ伝えられるとき、そのはじめにくるもの、それがバプテスマのヨハネなのです。
 「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた」(4節)とあります。「罪の赦しを得させる悔い改め」、この「悔い改め」、これがイエス・キリストとわれわれを結ぶ接点であります。
 悔い改めとは旧約聖書では「立ち帰る」こと、全人格の方向転換、神への復帰、神への信頼の回復を意味しました。放蕩息子のたとえにおける弟息子を想起せよ。バプテスマのヨハネは「神の使」として「荒野でよばわる者の声」であり、「主の道備え」をする者であります。バプテスマのヨハネは、すべての人間に向かって、人間の生活が本来どのようなものであるべきかを教えています。彼は人間の生活の形式、構えを示します。彼は内容ではありません。「荒野でよばわる者の声」に過ぎないからです。彼は「荒野でよばわる者」の声として、「主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ」と叫びます。ヨハネはこう訴えます。われわれの生活のただ中に主と直結する道を持つこと。その道を通して主を迎え入れること。それが悔い改めであります。その可視的しるしがバプテスマであります。
 「わたしよりも力ある方があとからおいでになる。わたしはかがんで、その靴のひもを解く値打ちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」(7-8節)。イエス・キリストへと結合する道、生活のただ中にそのような道を備えること。
 「荒野」や「砂漠」(イザヤ40:3)はわれわれが生きている現実を象徴するものと考えてよいでしょう。「谷」があり、「山や道」がある。そきには「高低のある地」「険しい所」(イザヤ40:4)であります。そこでイスラエルの民は生きていくのです。
 「もろもろの谷は高くせられ/もろもろの山と丘とは低くせられ/高低のある地は平らになり/険しい所は平らとなる。/こうして主の栄光があらわれ/人は皆ともにこれを見る」
 荒野の砂漠につくられた大路を、向こうの方から主が来られる、という幻であります。捕囚というイスラエルの民の現実のただ中に、主がこられ、民を導かれるのであります。
 「見よ、主なる神は大能をもってこられ/その腕は世を治める。/見よ、その報いは主と共にあり、/そのはたらきの報いは、そのみ前にある。/主は牧者のようにその群れを養い、/そのかいなに小羊をいだき、/乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(10-11節)。
 第二イザヤは捕囚のただ中で主の到来を信じ、期待しました。マルコもイエス・キリストの到来が主の到来として信じています。そして主が到来するとき、どうしようもならないように見える「とらわれ」の現実に亀裂が入り、その破れを通して神のみ国を仰ぎ見ることが許されるのだ、と語っているのです。
 「主のあわれみと恵が、生けるキリストがわたしたちの上に現れる道が備えられること」、バプテスマのヨハネは「罪の赦しに至る悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えていたと言われるのは、そのような道備えを全ての人間に向けて語っているのであります。