なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信№11

船越通信№11   2011年6月19日     
 
  612日(日)の夜、私と連れ合いは神奈川同信会の集まりに参加しました。12人ほどの小さな集まりで、神奈川教区に所属する同志社出身の教職を中心とした集まりで、今回I牧師に私たちを囲んで行いたいので、是非にと言われて出席しました。実は前回の神奈川同信会に誘われていたのですが、その時は紅葉坂教会の退任の時期で忙しく、計画を立てていただいたのですが、私の方でキャンセルしていましたので、今回は伺うことにしました。大船の駅前の飲み屋で行われ、自己紹介をして、後は飲んで食べる会でした。同志社神学部出身の若い教職は自然体で、私には好ましく感じられました。東神大出身の若い教職は東神大教授会の神学という鎧で自分を固めていて、等身大の人間性がなかなか感じられない人が多いのですが、そういう点では同志社神学部出身の若い教職の方がはるかに自由さを感じます。その自由さがどのように開花していくのかは未知数ですが、期待したいと思っています。
  613日(月)から14日(火)にかけて大阪に行ってきました。現在の教団の執行部の姿勢に批判的な人たちの集まりで、一応全国的なもので、そういう集まりはこれ以外にはありませんので、私も元教団常議員の一人として出席しました。この集まりは、私の免職処分にも反対をしてくれていて、今回も今後の私の裁判とその支援について、話し合ってくれました。
  615日には中野ゼロというところで、沖縄第2期意見広告報告集会があり、私もその意見広告に名前を出しましたので、出席しました。その報告会の名称は〈普天間即時閉鎖、辺野古やめろ、海兵隊いらない、今、沖縄と「フクシマ」が国策の誤りを糾す〉です。ここに「国策」という言葉が出ています。今も日本政府は沖縄の人々の苦しみにも、今回の大地震による津波によって起きた福島原発事故によって、被ばくによる子どもたちの命を心配する福島の人々の苦しみにも、真正面から向かい合おうとせず、政府の顔は、アメリカに、自分たちが推進してきた原発を守ることに向いていて、苦しんでいる人間を切り捨てようとするのではないかという問いかけです。沖縄から発言された方々も、福島から発言された方々も、日本国家による棄民政策を糾弾しているのです。たとえば、戦時下日本の天皇制国家が満州開拓民を見捨てたことと、今沖縄と福島で起きていることは質的に変わらないのではないかという問題提起だったと思います。福島から発言された5人の子供のいる母親の方は、「子どもの命を守らないで、何を守るのですか」と、心の底から発せられる言葉で問いかけておられました。私はこの言葉の前に自分がどう立ち得るのかと、自問自答しながらこの集会を後にしました。
  616日の夜には、船越教会の聖書研究会がありました。本田さんの『聖書を発見する』の第1章「どこに立って聖書を読むか」を扱いました。私を含めて5人の出席者で19:30から始まった会が、時計が22:00を回ったので、今日はこれでと私が言わなければならないくらい、一人一人から発言が続きました。最後にあまり発言しなかった方に、どうですかと言いましたら、この本に関係ないが断って、「今度の東日本大地震津波及び原発事故で沢山の人々が苦しんでいるのを思うと、神様ってなぜこんなことをするのかと思ってしまう」と言われました。私はそのようには神を考えていないということと、その思いをもって神に問うことではないか、と言うしか応えられませんでした。
  617日は寿地区活動委員会があり、委員会が開かれたなか伝道所に行きました。東日本大震災があり、支援がそちらに集中するのではないかということで、寿地区センターへの献金が少なくなるのではと心配していました。今年度は非常勤職員も加わりましたので過年度より年間予算が100万円増えています。45月と、心配したほどではない状況ですので安心しました。信じれば備えられるという信仰の持ち主からは、不信仰な者としかられそうですが。寿地区センターへの支援今後もよろしくお願いいたします。
  612日の説教では、マルコ福音書140-45節からメッセージを聞きました。「一人の重い皮膚病を患った人の治癒」の出来事において、イエスはその病気のゆえにおそらく家族からも離れて生活しなければならず、「自分だけは見捨てられた」人間だと思っていたに違いないこのひとりの病人を癒し、福音を告げ知らせる神の働き人として、手をとり立ちあがらせました。それは病者の癒しであり人間回復の出来事です。その時のイエスは神ご自身のように力ある方です。反面、癒された病者には、そのような彼ご自身の偉大さをそのものとして人々に吹聴するのを厳しく戒められました。それは、あのゴルゴダの十字架への道行きに示されている神と隣人へのイエスの仕えを抜きにして、彼の偉大さを語ることは許されないからです。イエスの人格とその言行を通して神われらと共にという信仰の現実に立つ人は、癒された病者であり、その喜びをもって現実の困難を突き抜けて生きていく道に招かれているのではないでしょうか。