なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師からの一言

 以下の文章は今年の3月まで牧師をしていた教会のホームページに載せたものです。今はその教会のホームページからは削除されていますので、改めにこの私のブログに掲載させていただきます。
 
〈牧師からの一言〉
 
 私はキリスト教の教会の牧師をしていますが、実はキリスト教がなくてもいい世界になったらいいなあと思っています。キリスト教だけでなく、すべての宗教がなくてもいい世界になったらいいなあと思っています。
 キリスト教を含めてすべての宗教が存在しなくてよい世界とは、一体どんな世界でしょうか。実は聖書の中にも僅かですが、そういう世界のイメージが記されています。ヨハネの黙示録の一節に、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民になる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。・・・」と言われています。
このヨハネの黙示録の描く、神と人、人と人とが繋がり合って、平和で、人の中から「涙がぬぐい取られ、死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない」世界が来れば、すべての宗教はその存在の必要を失ってしまうだろうと思うのです。
 しかし、残念ながら私たち人間の歴史が続く限り、そのような世界は完全には到来しません。ただイエスは、そのようなあるべき神の未来(=神の国)を先取りして、この世に生きる私たちにもたらしてくださった方だと思います。そして、あるべき神の未来の物語を人間の物語としてこの世を生きる道を、私たちに与えてくださっているのではないでしょうか。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ人への手紙11章1節)と言われていますが、この信仰に関する聖書のことばも、信仰があるべき神の未来の先取りであることを言い表しているといえるでしょう。
そういう意味で、教会はあるべき神の未来としての神の国のスタートとでも言える人間の集まりで、毎日曜日の礼拝はその喜びの祝祭とでも言えましょうか。そしてイエスを信じて生きる人々は、この世では「旅人」「寄留者」と聖書でも言われていますから、この世に生きながら、この世から自由に生きられる人間ではないかと思います。実際にはそれがなかなか困難なのですが。でも教会に来ている人は、多かれ少なかれどこかにその魅力を感じているのではないでしょうか。
ですから、今の世界や自分に不安を感じている人、現代社会の矛盾に疑問を感じている人は、一度神からの語りかけである聖書のことばの自由さを、一緒に聞いて味わってみませんか。
お待ちしています。                   
 
 現在私は日本キリスト教団船越教会で牧師の働きをしています。