なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(56、復刻版)

 昨日は国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行ってきました。午後1時ごろ国会前につき、いつも座り込みに必要な椅子やカンパ箱やアッピールの道具を預けている場所から持ってきてくださるYさんと一緒に準備から参加できました。雨雲が広がり、2時半ごろからは小雨が降っていましたが、座り込みは何時ものように4時まで続けました。昨日は「辺野古への基地建設を許さない実行委員会」の方も一人、辺野古アセス反対を訴えて、一緒に座り込みをしました。座り込みをしていますと、いろいろな運動をしている人が、私たちの前を通り過ぎて行きますが、多くの方は「ご苦労様です」と、声をかけてくれます。昨日は一人の方が声をかけてくれ、10,000円のカンパを入れてくれました。そして仲間の人たちと、「本当にこの国はおかしいよね」と言いながら通り過ぎて行かれました。
 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(56、復刻版)を掲載します。  

            黙想と祈りの夕べ(通信 55[-4] 2000・10・22発行)

 この「黙想と祈りの夕べ」とどこかで関わるかもしれないと、一人の兄弟から「言葉に力を与えるもの」という精神神経科の大学教師が書いた短文をいただきました。大切な指摘がありますので紹介します。まず人間の「心の領域は不確実である」。「前向きに治療を引き受けるとこじれる」し、「…予期せぬ方向に事態は向かう」というのです。また、「問われることが多いためか、そもそも答えがないためか、精神科医心理療法家は概してお喋りになっていく。余計に喋ってしまう。言葉は最大の武器であるはずなのに、うっかりすると何か適当な判断や、思いつき、誰かの言った言葉、相手の歓心を引くこと、癒すことをあっさり言ってしまう。善意の無意識的詐欺師というわけだ。他人の人生に少しの距離を置いて観察し、ちょっと首を突っ込み、さらに専門書でもなんでも読めば、それなりの言葉が流れ出てくる。人に教示したことをそのままの言葉を自身が実践することがいかに至難の業であるか、喋っている間は忘れている」(下線筆者)と記されています。厳しい指摘ですが、思い当るところがあり、反省させられます。私自身としては、下線部分を自分のモット-としてきたつもりです。「他者批判=自己批判」「天に向かって唾をはく」ということです。他者へ向けられることは自分にも向かってくるものとして、自分の言葉や行動を律してゆくということです。では、言葉に力を与えるものは何でしょうか。「人と人との関わり続けた小さな体験の積み重ねが、互いの言葉への信頼を決めていく。…出会う人の悩みが心底深いならば、私達がなによりも成すべきことは、見えない未来に向かい合い、身を投じる自身の姿を提示することである。そして互いの関係性が揺るぎないものとなったとき、ひとつの言葉ははじめて意味を深め、人の心を動かす力を発揮するであろう」というのです。その通りでしょう。

 上記の私の紹介に続いて、「分かち合い」では、一人の姉妹が、この「黙想と祈りの夕べ」に一年間参加して、いろいろなものを見る目が自分に与えられたように思うと。テレビで放映されたスペインのガウディの「聖家族教会」の建築物を見て、人間はなぜ何百年もかけて建築物を造のか。雄大な岩山の自然と比べて考えさせられた。また、今日のルタ-の執り成しの祈りについての文章を読んで、昨日名古屋から訪ねてくれた婦人のことが思い起こされた。彼女はお孫さんのお世話をするときにも、最初祈ってから始めるそうです。また、以前彼女がクラス会に出席したとき、その仲間はクリスチャンではないのですが、自分に祈って欲しいと言われ、体の弱っている人や、お連れ合いと死別した人のことを覚えて祈ったといいます。その仲間の一人が最近私の前任教会で、彼女の所属する名古屋の御器所教会の礼拝に出席するようになったそうです。日本人の場合多くは自分のために祈ります。家内安全、商売繁盛と。けれども、私たち教会の祈りの中には他者への執り成しの祈りがあります。ルタ-の文章と共に、祈りが力をもつことを改めて知らされ、祈りの大切さを感じさせられましたと。

 また、もう一人の姉妹は、自分の小さな体験を語られました。新聞折り込みチラシで黒酢など健康食品が大変安い薬局を知り、買いに行ったら、投網ですくわれるように高価な健康商品を売る部屋に連れて行かれてしまった。自分は途中で退席できたが、他の人の中には買わされた人もあるかも知れない。以前なら買ってしまったかも知れないが、落ち着いて対処でき感謝であったと。