なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(26)

      マルコ福音書による説教(26)マルコによる福音書7:15~23、
        
・「すべて外から人の中にはいって、人を汚しうるものはない。かえって人の中から出てくるものが、人をけがすのである」(7:15)。この言葉は、ただこれだけを取り出して読みますと、何の鋭さもない平凡な言葉のように聞こえるかも知れません。そして、何もわざわざとり立てて言う必要もないように思われる言葉を、何故イエスは語られたのだろうかという疑問を持つ人もいるかも知れません。確かにこの言葉がイエスが語られた具体的状況を切り捨てて、今日の私達に直接語られている言葉と考えれば、私達の日常的な体験と照らして見てもよく理解できる言葉です。誰か他の人に対して語った自分の言葉がその人を深く傷つけたり、逆に人の言葉によって自分が深く傷つけられるということはよくあります。そういう私達の日常的な背景の中で、「どんな食物を食べてもかまわないが、言葉はよくよく注意して相手に語らなければならないですよ。言葉は人を傷つけ、その人を打ちのめしてしまう力があるのですから」という教訓に、この言葉を読んで読めないことはないわけです。

・ところが、イエスの時代のユダヤ人社会ではこのイエスの言葉はとてつもなく鋭い言葉で、ある意味では、この言葉によってイエスは十字架にかかったと言っても過言ではありません。この言葉の前半について、つまり、「すべて外から人の中にはいって、人を汚しうるものはない」ということについて、弟子たちの質問に答えるかたちで、イエスは次のように語ったと書かれています。18節以下ですが、塚本訳でみますと、「あなた達までそんなに悟りが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人をけがし得ないことが解らないのか。心に入らず、腹に入って、便所に出てゆくからだ」と訳されています。続いて福音書の著者は、「イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた」と、解説風な言葉を付加しています。つまり、食物は何を食べても、口から入って、腹に入り、そして消化して、ついに便所に出ていくのだから、人を汚すものではない。だからどんな食物でも清いのだ、とイエスは言ったというのです。

・或る注解者は、この15節を「新約聖書のなかで、おそらく一番革命的な節であった」と言っています。この言葉の並行記事でありますマタイによる福音書15章20節では、そのイエスの言葉の鋭さが弱められています。少し前から(15:17節~)読んでみますと、マタイでは、「口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出ていくものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹(そし)りは、心の中から出てくるであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。マタイでは、「どんな食物も清い」というマルコ福音書におけるイエスの言葉が、「洗わない手で食事することは、人を汚さない」に変えられているのです。この二つは内容的に明らかに違います。マタイは問題を矮小化しています。

レビ記11章に書かれていますように、ユダヤ人にとって食べてよい物と決して食べてはならない物が、清いものと汚れたものというように分けられていました。そして、この戒めを破る者は神の前に汚れた者となる、と信じられていました。そういう固定観念を持った人たちと彼ら・彼女らによってつくられている社会の中で、イエスはこの言葉を語ったのです。しかも、ただこの言葉を語ったというのではありません。どんな社会でも、言葉だけならいくら尖鋭的な言葉を語っても、ゆるされるような面をもっています。日常性から分離された非日常的な限られたところで、いわば密室で語られるような影響力しかない場合です。ところがそうではなく、尖鋭的な言葉が日常的な生活の中にまで入ってきて、今まであった秩序が根本的に問い直され、人々に大きな動揺を起こし、既成の権威が崩れてゆく場合には、その言葉を語った者はただではすまされないのであります。例えば、イエスの言葉がその行動で裏づけられているものとして、「収税人や罪人たちとの食事」を挙げることが出来ます。このイエスの行動もごく自然に出てきたもので、意図的に反逆を試みようとしたものではなかったと思われます。むしろ、イエスは、当たり前のことを言い、当たり前に振る舞ったのでありましょう。しかし当たり前のことを言い、当たり前に振る舞ったイエスが、多くの人々、特にこの世的な秩序のなかで当たり前な生活をしていた人々にとっては、「逆立ちした人間」に写ったに違いありません。真理を見つめ、真理に生きる者の宿命といえばいえないこともありませんが、イエスが見ていたものが人々には見えなかったということなのでしょう。

・信仰はそのようなイエスに躓くことから始まるのではないでしょうか。躓いてもイエスを捨てて、自分の在り方にしがみついてしまう場合もあります。ちょうどファリサイ人たちがそれで、彼らは自分と自分の立場を守るためにイエスを排除し、ついには殺してしまうのです。又苦しんでいる者が、自分の苦しみをつくり出している客観的状況を取り除いてくれないと言って、イエスを捨ててしまう場合もあるでしょう。どちらにしても、このような人たちは自分を変えることが出来ないままイエスに躓いてしまい、イエスの方から生きようとはしません。信仰とは、「躓きの石、妨げの岩」(汽撻謄2:8)であるイエスを仰ぎ見ることです。自分を捨ててイエスとともに、イエスに向かって歩むことではないでしょうか。

・私たちはそれが分かっていても、なかなか自分を捨ててイエスに従うことができません。もし、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)というイエスの声掛けと約束がなかったら、そのむずかしさを突き破って、私たちがイエスに従うことはとても出来ないと思います。

・私は、大分前に教団新報にのった深津文雄さんの発言を読んで考えさせられました。この人は、ご存知の方もあるかも知れませんが、「かにた村」という性的に女性を売り物にさせられていた女の人たちの共同生活の場を作ってやってきた人です。既に帰天されていますが、深津氏は、「私は、日本の土壌でイエス追従を打ち立てねばならんと思っているんです」と言い、そのために、「私は底点への競争をしてみたい。いかにたくさんのものを失ったかで賞を競うんですよ」。「悲しみを分かち合い、祈りを共にし、むしろ損をする所が教会だ。でも、今の教会は大きな会堂をつくるために、教会営業に熱心だ。イエスはキリストなり、とか言って、しゃべってばかりでちっとも損をしようとしない。コイノニアは一つもなされていない。そんな所に神はいませんよ。私は今の教会がみんな無くなっても、何も減りはしないと思う」、「苦しんでいる人の方へ、自然に足が向いていく、そういう人は、自分を隠します。…本当の信仰をもっている人は、言葉で表現できないほどの威厳をもっていると思う」。

・当たり前のことを言い、当たり前に振る舞ったイエスが「逆立ちした人間」としてしか見られませんでした。その原因はどこにあるのでしょうか。例えば、同じ風景を見ていても、一人には見えても、もう一人の人には見えないということがあります。外面的な風景ならともかく、人間の問題を見る場合には、特にそれが顕著です。特に他者の苦しみはなかなか見えません。否ほとんど見えないと言ってよいのです。イエスが見ていた人々の苦しみ(病人、罪人)は、誰も見えなかったのであろうと思います。或る人には、見えてもどうしようも出来なかったのかも知れません。

・イエスの言葉の後半を見ますと、「かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである」とあります。21節には、「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出てくる」とあります。続いて出てくる諸々の悪徳は、カタログのように列挙されていますが、パウロの手紙等にも出てくるものです(ロマ1:29-31,ガラ5:19-21,コロ3:5,8等)。おそらく当時広く人々の中に伝わっていたものでしょう。

・これは実際にイエスが語ったというよりも、イエスの言葉を説明するために後から付け加えたと考えられます。いずれにしろイエスは「人の心」を問題としているのです。イエスを「逆立ちした人間」としてしか見れないのは、イエスが見ていたものを見ることが出きない「人の心」によります。自己中心的な私たちの歪みによってよってよごれてしまっている心は、かたくなにイエスを拒絶します。ヘブル的な考え方では心と肉体は決して分裂しません。人間存在の中心です。

・山上の垂訓の中で、イエスは、「心の清い人が神を見る」と言っています(マタイ5:8)。詩篇の詩人が、「罪に染まった私を洗い、罪に汚れた私を清めてください」(51:4)。「私から罪を取り去ってください。そうすれば、わき水よりも清くなるでしょう」(51:9)。「「神よ、私のうちに清い心を造り、私の霊を強めて新たなものにしてください」(51:12)と祈っています。

・さて、このテキストでは、イエスは「人の心」が根本的に歪んでいる。そこから汚れが出てくるんだ、というわけです。悪霊のことが「汚れた霊」(1:23)と言われていますが、それも、そのためです。ここでのイエスは、外的なものに目を奪われ、自ら心の汚れを問題にしない人たちに対し怒る方でもあります。その傍らで、弟子たちもまた無理解な者でありました。イエスと教会(キリスト者)の関係は、このイエスと弟子たちとの関係に象徴されているのかもしれません。イエスのことを弟子たちは、わからないのです。しかしそういう無理解な弟子たちをイエスは見捨てることなく包むのです。

ヨハネ15章3節に、イエスは「私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」と弟子たちに語ります。「すでに体を洗った者は全身きれいだから。足だけ洗えばよい。あなたがたは清い」(13:10)。ここには、イエスの十字架によって、失意の中にあった弟子たちに、「あなたがたより先にガリラヤに行って、そこで待っている」と女性たちを通して語られた復活のイエスがいることが示されています。その復活のイエスとの出会いによって、私たちは自分自身の力によってではなくイエス自身の命によってイエスに従って生きることができるのではないでしょうか。信仰とは、イエスに躓きイエスに従って生きることなのです。