なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(35)

船越通信癸械機  。横娃隠映12月11日     

・12月4日の日曜日は礼拝後、テーマの話し合いが行われました。Yさんが「近代現代社会(科学万能、経済優先)とキリスト教信仰(教会)」というテーマで発題してくれました。Yさんが作ってくれたレジメは以下の通りです。

・1、近代社会形成に影響を与えたキリスト教信仰 .蹇璽淞觜餽餠気忙呂泙訐鑪的布教 中世紀における列強国(スペイン、ポルトガル、イギリス、フランス等)の植民地の拡大と土着文化(宗教)の破壊とキリスト教の強要 F鐱椶任鰐声時代に入り、キリスト教主義学校の設立とアメリカ人宣教師を中心とした布教活動 じ渋紊砲けるキリスト教文化とイスラム文化の対峙 2 東日本大震災福島原発事故(命を脅かす) .▲瓮螢の核戦略として原発(核拡散防止) 不完全な技術 1兆円の開発費を使いながら未だに完成のめどがたたない「もんじゅ」 っ録未梁燭っ羚颪録十年の間に100基の原発を計画している。ゲ奮悗糧展と人間の生活(再生医療―IPS細胞、核融合等) Π罎涼罎粒拭淵縫紂璽肇螢痢暗黒物質ダークマター等) 3 1年間で3万人を超える自死者を出す日本社会 ー殺の原因動機内訳 健康問題40% 経済生活問題31% 家庭問題10% 勤務問題6% 男女問題3% ∪こΔ亮殺率(10万人当) 1、リトアニア34人 2、韓国31人 3、ロシア30人 ・・・・8、日本25人…20、フランス16人…27、中国14人…33、ドイツ12人…41、アメリカ11人…59、イギリス7人…97、エジプト0.1人 F鐱椶砲ける自殺の原因動機は何か バブル経済崩壊後の日本経済が激変したことによる社会構造の変化及び年功序列型からアメリカ型の成果主義への移行に伴い、ストレスの強い社会環境になった事にも一因があろう。お隣の韓国社会も同じ現象が起きている。自殺した韓国俳優パク・ヨハンは「人生は余りにも厳しい」と言い残した。
・今回は時間の関係もあり、フロアーからの意見表明はありませんでしたが、現実社会の問題として重く受け止めながら皆Yさんの発題に耳を傾けました。この日の礼拝には山梨のCさんが出席しました。Cさんは私の裁判にも深くかかわってくださっている方です。

・12月4日はその後役員会が行われました。主にクリスマスの準備をいたしました。今年は12月24日が土曜日ですので、キャンドルサーヴィスに続いて、25日の日曜日クリスマス礼拝が行われます。祝会はキャンドルサーヴィスの後行いますので、25日のクリスマス礼拝後はお茶の会のみにしました。11月27日のフリーマーケットのチラシを近所に配ったところ、フリーマーケットにいらした方もありましたので、クリスマスの案内もチラシにして近所に配ることにしました。

・この日役員会が終わった後、スイスのジュネーブにありますEcumenical News Internationalから出ています英文のENnewsの日本担当記者であるYさんが、私の裁判をこのニュースに配信したいと訪ねてきました。1時間ほど応対しました。Yさんは、私が教師退任勧告を受けた時も取材に来て、上記ニュースに私の問題を配信してくれましたが、今回は私が戒規免職の問題を裁判に持って行ったことを取材し、12月7日のENnewsに記事を掲載してくれました。

・先週は大変忙しい一週間になりました。6日(火)18:00開催の常置委員会に鶴巻から行きましたが、その前に紅葉坂教会信徒のFさんが帰天しましたので、その夜にあった前夜式には常置委員会と重なりますので出られませんでしたので、16:30からありました納棺式に出させてもらいました。翌日7日(水)は12:00から葬儀式が紅葉坂教会でありましたので出席し、葬儀が終わり次第、その日夕方から鶴巻に客を迎えることになっていましたので、すぐ鶴巻に引き返しました。

・8日(木)は国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行きました。冷たい小雨が降っていましたが、私と常連の2人に、この日は沖縄の辺野古に基地を作らせない実行委員会の方が一人私たちと一緒に座り込みました。彼女は道行く人に、アセスメントを出さないようにしてください、と声を出して訴えていました。その日は船越ではなく鶴巻に帰り、9日(金)朝鶴巻から寿の青年ゼミに参加し、一日寿にいて、夜上大岡駅で人と待ち合わせ、駅構内の喫茶店で2時間ほど話を聞き、その方が車で船越教会まで送ってくれました。教会に着いたのが22時頃でした。

・4日の説教は、マルコ福音書7章14-23節をテキストにメッセージを取り次ぎました。このマルコ福音書の個所は清さと汚れがテーマとなっています。「すべて外から人の中にはいって、人を汚しうるものはない。かえって人の中から出てくるものが、人をけがすのである」(7:15)。この言葉は、ただこれだけを取り出して読みますと、現代の私たちにとっては何の鋭さもない平凡な言葉のように聞こえるかも知れません。ところが、イエスの時代のユダヤ人社会ではこのイエスの言葉はとてつもなく鋭い言葉で、ある意味では、この言葉によってイエスは十字架にかかったと言っても過言ではありません。或る注解者は、この15節を「新約聖書のなかで、おそらく一番革命的な節であった」と言っています。この言葉の並行記事でありますマタイによる福音書15章20節では、このイエスの言葉の鋭さが弱められて、「手を洗わずに食事しても、そのことは人を汚すものではない」と変えられています。マタイは問題を矮小化しています。信仰はそのようなイエスに躓くことから始まるのではないでしょうか。イエスを「逆立ちした人間」としてしか見れないのは、イエスが見ていたものを見ることができない「人の心」によります。自己中心的な私たちの歪みによってよごれてしまっている心は、かたくなにイエスを拒絶します。信仰とは、躓いてもイエスを捨てて、自分の在り方にしがみつくのではなく、その躓きを超えてイエスの側から自分を見なおすことではないでしょうか。そのことによって人は自らの中に心からイエスに従い、隣人である他者を大切にする「清い心」が与えられるのではないでしょうか。