なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(2)

 今日は、「牧師室から(2)」を掲載します。「父北村雨垂とその作品」を掲載する予定でしたが、4冊目のノートに書かれている句は、既に掲載しているものと重複しているものが多いようで、少し調べてみてたいと思います。
 今年は2002年10月の第33/18回教団総会で沖縄教区が教団との間に距離を置くようになって10年になります。この10年間で私たちは沖縄教区との関係を修復することができませんでした。自分なりには努力したつもりですが、力足らす残念です。私自身も教団から戒規免職処分を受けて、自分の問題に向かい合わなければならない時間を多くとらなければならなくなりました。状況はなかなか厳しくありますが、あきらめないでコツコト自分のできることをやっていきたいと思います。
                
                牧師室から(2)

 今年の年末年始には3日ほど部分的に寿の越冬に参加しました。年末の30日と年始の2日、3日です。主に炊き出しの準備と配食を手伝いました。特に3日の日は、炊き出しの準備を午前十時頃に終えて、寿冬祭りの一環そして企画されていました囲碁・将棋大会が寿生活館三階の集会室で行なわれていましたので、私はそこに参加しました。紅葉坂教会員の3人が参加者のお昼のお餅を準備していましたが、私は囲碁・将棋大会の参加者の一人として、二人の方と囲碁を四局楽しませてもらいました。参加者は十四、五名でしたが、囲碁をする方は私以外にお二人でした。お二人とも年配の方ですが、一人の方は自称四段、もう一人の方は六段ということでした。私はお二人より囲碁の力は格段下でしたので、四段の方とは六目置いて、六段の方とは星目(九目)置いて打たせてもらいました。お二人とも二局づつ打ちました。四段の方とは一勝一敗、六段の方とは二勝でした。特に六段の方との一局は、相手の見間違いで相手の大石が死んで,中押し勝ちでした。私は囲碁が好きですが、もう何年も打っていません。今回思わぬ幸運に恵まれて、寿の方と打つことができて、またいささか囲碁の勝負にこだわる私としては大変満足でした。そして、六段の方に、私は何級くらいでしょうか、とお尋ねしましたら、何級などを気にするのは良くない、と言われ、趣味にも序列にこだわる自分の卑しさを見透かされたようで、大変ショックでした。  (2003年1月)

 一月二十八日の午前二時頃に電話のベルが鳴りました。連れ合いが受話器をとり、栄聖仁会病院からと受話器を渡されましたが、私は眠りから醒めない状態で受話器の向こうの声を聞いていましたので、最初は何がなんだか分かりませんでした。その内M姉の臨終の知らせであることが分かり、すぐに伺うことを伝えて電話を切りました。遺体を教会に搬送するために教会が頼んでいる葬儀店に連絡し、身支度を整えて教会を出て、タクシーを拾い病院に向かいました。午後三時頃には病院に着き、医師から老衰による死亡であることを知らされました。霊安室に下ろされていた姉妹の顔は化粧が施されていて、安らかに見えました。しばらくすると葬具店の車が到着し、姉妹の遺体を乗せて教会に帰りました。
 実は事情がありまして、姉妹は約五年前から私が身元引受人としていろいろな世話をいていました。その関係で、今までの私の牧師生活の中でも一人の牧会のために最も多くの時間を姉妹との関わりに使いました。多分五年前の最初の一年間には延べ百日以上姉妹のことで出かけたと思います。姉妹は夫の死にも葬儀にも立ち会うことができませんでした。この四年半は小規模な介護ホームと病院での生活でした。特に最後の二年半は心身の衰えに耐えながらの孤独な病床での生活でした。昨年のクリスマスごろヒムプレイヤーを持って行き、病室でクリスマスの讃美歌を一緒に歌ったときの嬉しそうな顔を忘れられません。
                              (2003年2月)

 前号の二月の教会だよりで「かながわ明日の教団を考える会」について書きました。その中で、私が二月二十二日開催の神奈川教区総会で議長選挙の候補者に推されていること、自分が何故それを受け入れたかについて記しておきました。教区総会では、予備選挙で議長、副議長候補に挙がりましたが、本選挙では両者共に二番目の票数で選ばれませんでした。内心はホットしていますが、神奈川教区の現状については問題を感じています。常置委員には選ばれました。
 私は一九六九年四月に神学校を卒業して教会で教職として働くようになりました。一九六七年のイースターに当時の教団議長鈴木正久牧師の名で「戦責告白」が出ました。七十年の「万博問題」「東神大問題」「教師検定問題」で自分の立場を問われ、それ以来いわゆる「問題提起者」の一人としてやってきました。問題提起者の多くは第十七回総会(一九七三年開催)以降教団政治でイニシアティブをとるようになりました。その過程で対話による説得と理解ではなく、問題提起者の側にある種の「力」が用いられたと思われます。それが、昨年の第三十三回教団総会では多数決という「力」で教団政治における問題提起者の排除という形になったと、私は思っています。ですから、今後神奈川教区で私がなすべきことは、意見の異なる者の間に信頼関係を構築しつつ、議論を通して福音の真実に共に立つ努力をしていくことだと思っています。(2003年3月)

小泉純一郎という人は私たちと同じ生活者の一人という匂いがほとんど感じられない不思議な人です。それだけに政治家としては大変危険な人物ではないかと思われます。事実首相が小泉さんになってからあれよあれよという間に平和憲法の枠組みが次々に崩され、ついに「有事法制関連三法」が国会を通ってしまいました。戦争が出来る国家体制が平和憲法に立つ日本の国に形づくられ、今後もそれに沿った細部の詰めがなされようとしています。生活者としての私たち一人一人からすれば、国家は遠い存在ですが、これからはそうもいかなくなるでしょう。日の丸・君が代の問題から公教育にも国家の顔が強力に現れてきており、歴史教科書や「心のノート」によってもこれまでとは比べられないほど強力に国家意識の注入が教育の場で行われ、子どもたちの心に日本の国家が造形されようとしています。経済が強い時には資本の論理が強力でしたが、このところ経済の不況停滞が恒常化していますから、その狭間を突いて国家が前面に顔を出して、りそな銀行のようなある種の国営化が金融資本に及び、更にはかつての殖産興業のように国家主導の資本の再編成ということになりますと、国家と資本の一体化の下に生活者としての私たちは強力に縛られてしまいます。そうなると、戦前の全体主義国家への逆行ということになりかねません。生活者でありキリスト者の一人として、平和と人権を何よりも大切にする私たち一人一人の有り様が問われています。(2003年6月)