なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(155、復刻版)

         黙想と祈りの夕べ(通信 115[-10]2001・12・9発行)

 今日の役員会で以下のような報告がありました。先週の日曜日に日雇い労働者らしい方が3人礼拝に来て、受付で応対したとき、昼食があるかを尋ねられた。ないと答えたら、礼拝に出ないで帰って行かれた、という報告が受付を担当していた役員からありました。日雇い労働者・野宿者が礼拝に来たとき、どう対応したらよいのか、特に例えば昼食会が礼拝後にあって、昼食会へ誘うことはどうだろうか、という趣旨の話がでました。原則的に昼食会には礼拝出席者の誰でも出られるわけですから、例えば誘う方が昼食会の費用を負担したとしても、日雇い労働者・野宿者の方がその好意を受けるかどうかは別として、その誘う方の自由だという話を、私はしました。

 その話しの中で、もし長い間着のみ着のままで、臭気がからだから発散させる方が来られた場合、その方を昼食会へ誘うのは、昼食会参加者の中には反発する方もあるだろうから、難しいのではという意見も出ました。その話しの中で、私はどうしても私たちの中にそういう方を排除するものがあるのではないかということを申し上げました。すると、別の面でも、たとえば言葉の面でも、教会は言葉からの理解に不得手な方を排除しているのではないか、という指摘が一人の役員からありました。そういう意味で、私たちや私たちの教会は、ある人びとを排除しているのではないかという面が厳然としてあることを認めざるを得ないという話になりました。

 そういう私たちや私たちの教会の限界を認めながら、そこに居直らないで、自らの中にある排除の構造を否定的に乗り越えていくには、私たちや私たちの教会が排除してしまっている他者の方々から聞き、学び、自己変容しつつ、共に生きる道を模索していく以外にありません。私が常々「共生と自立」を宣教方針に掲げていますのも、そのような共生への道を歩む自立した私たちの在り様こそ、イエスの福音に生かされた者の姿ではないかと思っているからです。
 
 以上のような私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のような発言をしました。
 
 今日の礼拝前にあった日曜学校のスタッフ会でのクリスマス献金の送り先についての話し合いの中で、教団から来ているアフガニスタンの難民の子どもたちへの支援にささげてはどうかという意見が出た。その提案に私はそうですねとは言えなかった。アフガニスタンの難民の子どもたちへの献金もよいが、一方では我々の国がアメリカに加担していることを考えると、単純には賛成できないのかも知れない。これまで日曜学校で集まった献金を、自分たちで使うのではなく、どこかに送ることによって、そこから学ぶ方句をとってきた。

 そしてホスタープランとして中南米の国の一人の子どもにささげてきた。その方が結婚して、もうその方にはホスタープランの献金はいかないということで、献金の送り先をどうするか、スタッフの会では何回か話し合いを続けているが、決めかねている。 別の方にしてホスタープランを続けるか、ささげる方の顔が見える献金先はないか、誰かに何かをしてあげるというあり方そのものが問題ではないか等々、スタッフの会では、子どもたちがささげた献金をどのように用いたらよいのかと、真剣に考えている。

 貯めといて本当に必要な時にささげたらとも思うが、ただ貯まるだけではというジレンマもある。それでも、私たちが他者の痛みを感じること、体で接することが大切だと思うので、お金を用いることには慎重にしたいと思っている。そのような自分の中にも決定できないものがある。このことが良い方向に向うことを祈りたいと。

    
        「主の来臨」(『ルターによる日々のみことば』より)

 シオンの娘よ、大いに喜べ、/エルサレムの娘よ、呼ばわれ。/見よ、あなたの王はあなたの所に来  る。/彼は義なるもの者であって救いをたずさえ、/柔和であって、ろばに乗る。/すなわち、ろばの 子である子馬に乗る。  (ゼカリヤ9:9)

 
 たしかに、主は王であります。しかし、この世の王侯たちが着飾りたがるうわべのけばけばしさや権力で評価するならば、王としての風采をぜんぜん持たないみすぼらしい王にすぎません。

 主は饗宴、城砦、宮殿、金銀、財宝などは他の王たちにまかせ、又、彼らが一般民衆よりもよいものを食い飲みし、より美しく着飾り、りっぱな宮殿を建てるにまかせられました。しかし、このみすぼらしい乞食王キリストは、彼らの知らないわざを知っています。主はひとつの罪だけでなく、わたしのすべての罪から助けてくださいます。わたしの罪だけでなく、全世界の罪から助けて下さいます。主は病気だけでなく、死を取り除くためにこられました。わたしの死だけでなく、全世界の死を取り除くためにこられました。

 預言者はシオンの娘にこのことを告げます。「娘よ。あなたはみすぼらしい主の降臨につまずいてはならない。むしろ、その目を閉じ、耳を傾けなさい。又、主がみすぼらしい姿でろばに乗っておられるのを見るのでなく、このみすばらしい王について言われていること、のべ伝えられていることに耳を傾けなさい」。主のみすぼらしさと貧しさが、あらわれています。それは主が鞍も拍車もないこじきのような姿で、ろばに乗ってこられたからです。しかし、主がわたしたちから罪を取り除き、死を滅ぼし、永遠のきよさと祝福といのちを与えてくださることは、目に見えることができません。ですからあなたは聞き、信じなければなりません。         
                                 (降誕説第一主日の説教)