10月27(日)降誕前第9主日礼拝
注)讃美歌奏楽ユーチューブは本日はありません。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」
(詩編100:1-2)
③ 讃 美 歌 4(世にあるかぎりの)
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編34編8編2-10節(讃美歌交読文10頁)
⑥ 聖 書 ヨハネによる福音書17章20-26節(新約203頁)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 542(主が受け入れてくださるから)
⑨ 説 教 「一つになるために」 北村慈郎牧師
先程司会者に読んでいただいたヨハネによる福音書17章20~26節は、大祭司としてのイエスの祈りの第三の部分になります。イエスによる「全教会のため、教会一致のめための祈り」です。
そのことは、このイエスの祈りの冒頭の20節に記されています。<また、(わたしは)彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします>(新共同訳)という言葉です。この言葉が示しているのは、このイエスの祈りが、イエスを信じるキリスト者全体、あるいは教会全体のための祈りであるということです。
しかしそれは、イエスがこの祈りを祈られた時に彼の周囲にいた弟子たちをはじめ彼を信じた人たち全体というだけではありません。20節の<わたしを信じている人々>という言葉には、将来におけるイエスを信じるキリスト者たちも含まれていると言えるからです。もしそうであるとすれば、この第三の部分でのイエスの祈りは、イエスの時以来、今日の私たちに至るまでの――そしてさらに世の終りに至るまでの、全世界のキリスト教会全体のための壮大な祈りであるということになるわけです。
ところでしかし、イエスは、そういう無数のキリスト者たちの群れを視野の中に入れつつ、彼らのために何を祈られたのでしょうか。
21節から23節を読みますと、<父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったことを、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられることを、世が知るようになります>(新共同訳)と、イエスは祈っておられます。
この部分を一読してすぐ気づくことは、この短い箇所に繰り返し「一つになる」という言葉が出てくることです。イエスがこの第三の部分での祈りで、何よりも祈っておられることは、先程申しましたように、全世界のキリスト者の群れが一つになることです。
しかし、その場合に、イエスが祈り求められのは、必ずしも教会が組織として一つになるとか、あるいは教義の上で一致に達するとかいうことではないと思います。もちろんそういうことも、排除されてはいないと思いますが、必ずしもそういうことだけではないと思います。そうではなくて、イエスが祈り求めておられるのは、もっと根本的な一致だと思います。そのことは、この21節で、<父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように……>と言っておられる言葉が示していると思います。
すなわち、イエスがここで祈られる教会の一致というのは、父なる神と子なるイエス・キリストが、それぞれ独立した人格でありつつ、愛によって結ばれて一つであるということに源があるような一致であり、そのことが模範であるような一致であります。そのような教会の一致を、イエスは祈られます。つまりイエスは、私たちキリスト者がそれぞれ独立した人格でありつつ、互いに愛によって結ばれて一つであるようにということを祈り給うわけです。
しかし、その場合に、私たちが忘れてならないことは、そういう教会の一致ということは、私たちキリスト者にとって、何か遠い理想であるとか、あるいは努力目標であるとかいうようなものとして、イエスが言っておられるのではないということです。イエスがここで教会の一致を父なる神に祈り求め給う場合に、彼が祈られるのは、キリスト者たちが今はまだ持っていない一致を、努力して勝ち取ることができるようにして下さいと、祈っておられるのではありません。
実は、一致は、もうすでに存在しているのです。教会は、父なる神と御子イエス・キリストの一致の中にその根拠を持つことによって、もうすでに、そのような一致を与えられているのです。エフェソの信徒への手紙4章の始めに、私たちは<体は一つ、霊は一つです>(4節)とか、<主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ>(5節)とかいう言葉がはっきり語っているように、教会は、一つのものとしてすでにつくられているのです。ですから教会が「一つ」であるということは、決して私たちの理想であるとか、努力目標であるとかいうことではなくて、私たちの信仰においては、もうすでに現実であるという、そのことが大切です。
しかし、それにもかかわらず、私たちの目に映る教会の現実が、そういうものではないということも事実です。私たちの教会が現実に一つであるとか、一致があるとか言うことができないのは、言うまでもありません。カトリック教会とプロテスタント教会の間には対立がありますし、同じプロテスタント教会の間にも対立があります。無数の教派間の対立もあります。また、私たち日本基督教団の中にも対立があります。
したがって、そこには大きな食い違い、ギャップがあると、言わざるを得ません。すなわち、一方には聖書の告げているような現実がある。この場合で言えば、神によってすでに一つにされているという現実であります。しかしそれに対して、それとは非常に大きく食い違って、私たちの目に映る現実があります。すなわち、一つであるとはとても言えないような教会の現実があります。
それだからこそ、ここでイエスは、くり返し彼らが一つになるように、ひとつであるようにと、祈っておられるのです。――つまりここには、奇妙な食い違いがあって、教会はすでに一つのものとして神に作られているのに、他方に実際の教会はバラバラだという現実があるわけです。
そういう問題を考える場合に、一番重要なことは、私たちは先ず、私がキリスト者であるということがどういうことなのかを、考えなければなりません。私たちがキリスト者であるということは、私たちの目に映る現実がそのようなものであるとしても、神の目に映っている現実こそ、本当の現実であると言わざるを得ない者とされているということではないでしょうか。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)と語っているヘブライ人への手紙のことばの通りです。
そこからすべてのことは始まると思います。教会は、もう一つにされているということだけを考えて、教会が現に持っている不一致や対立などは、もう問題にしないということでは決してありません。むしろ反対であって、そこからこそ、本当は、私たちの罪との戦いが始まるのです。私たちは罪赦され、義なる者とされているのに、なぜ自分はこのような罪の中に生きているのかということ、それが私たちの問題となり、それが私たちの罪との戦いになるのです。神に依って教会はもうすでに一つにされている。それなのに、この教会の中には様々な対立があり、不和があり、食い違いがある。それはなぜなのかと、私たちは真剣に問うこと、そこから、私たちの戦いが始まるのです。
聖書は、私たちに、「汝の罪赦されたり」と申します。それは、私たちにとって、根本的な平安であります。しかし、私たちの中には、それと同時に、自分は罪赦された者であるのに、どうしてこのような旧態依然とした罪人であるのかという不安があります。そして焦燥があります。私たちの中では、そういう平安と不安がいつも活き活きとしていなければなりません。それがキリスト者というものではないでしょうか。
もう一つこのイエスの祈りの中で考えさせられることは、教会の一致によって神がイエスを遣わされたことと、神がイエスを愛しているように、互いに愛し合うという教会の一致を世がどのように思うかということです。<そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります>(21節)、<こうして、あなたがわたしをお遣わしになったことを、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられることを、世が知るようになります>(23節)と言われていますから、教会が一致し、神がイエスを愛しているように、教会すなわちすべてのキリスト者も神の愛を受けて互いに愛し合うことになるとすれば、それを世が知るようになると言うのです。
世は神がイエスを遣わされたことを信じるようになり、教会の一致による全キリスト者が互いに愛し合って生きることを世が知るようになるということは、どういうことなのでしょうか。
イエスの祈りで<すべての人を一つにしてください>(21節)言われていますが、この<すべての人>は「すべてのキリスト者」を意味すると共にこの世の「すべての人」をも意味しているのではないでしょうか。とすれば、このイエスの祈りでは、教会の一致によってすべてのキリスト者が互いに愛し合うようになり、そのことを通して世の全ての人も神と子なるイエス・キリストの愛による一致に与って、一致と相互愛に生きるようになるという希望が、このイエスの祈りの中に含まれていると言えるのではないでしょうか。
正に<神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである>(ヨハネ3:16,17)ではないでしょうか。
これは終末的な希望です。終末的な希望とは、私たち人間を神が最終的に救済して下さるという信仰です。神は独り子イエスを通して、この世をの愛し給うとは、神とイエスが一体であり、両者の間には愛の交わりが成立していますが、その一体性と愛の交わりの中にすべての人を招き入れてくださるという信仰です。私たちはその信仰と対立と憎しみ合いの目に見える現実の狭間で、私たちは、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブル11:1)信仰をもって戦っていくのです。
ヨハネ17章のイエスの第三の祈りは、そのような戦うキリスト者への慰めと励ましを与える祈りであると言えるでしょう。イエスは十字架死を前にして、残される弟子たちにこのように祈られたことを覚え、今も私たちキリスト者のために祈っていてくださることを思わざるを得ません。この神によるすべての人の救済を信じ、それを目標としてこの地上の私たちに与えられた命を生き抜いていきたいと願います。
主がそのように私たち一人一人を導いて下さいますように!
祈ります。
- 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
- 神さま、あなたはイエスを通して私たち主イエスを信じる者たちの群れを起こし、主イエスを信じる私たちを通して、この世界をあなたの真実に変えようとしてくださっていることを信じます。しかし、私たちはそのあなたの期待に応え得ない弱さをもっています。どうかあなたへの、また主イエスへの信頼を強くして、少しでもあなたの期待に応えることができますように、私たち一人ひとりをお導き下さい。
- 戦争や他者からの暴力や自然災害によって苦しんでいる人々、また、差別や貧困で苦しむ人々を支え、助けてください。
- 他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 讃 美 歌 560(主イエスにおいては)
⑪ 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。