鶴巻通信32
第43回教団総会をリモートで傍聴して(その1) 北村 慈郎
船越通信638号で私の問題に関わる二つの議案について、議長団は今回も上程せずに葬ったことを記すと共に、その議長団の姿勢に内在する問題性について述べました。以下転載します
【船越通信、№638 2024年11月3日(日)
- 私の免職問題に関係する議案が西中国教区と神奈川教区の教区総会決議議案として二つ教団総会の議案になっていましたが、議長は議事日程の段階でこの二つの議案は、戒規施行細則第6条によって最終決定されているので、教規に再審の規定がないことと、この事案を扱えば、次々に別の事案も扱わざるを得なくなり混乱するので扱うことは出来ないと言って、二つの議案を葬ろうとしました。それに対して議場から動議が出され、扱うか扱わないか採決しましたが、少数否決で、結局二つの議案とも審議されずに葬られてしまいました。教団総会前には今総会では私に関係する議案も審議するのではという楽観論が聞かれましたが、私はそうは思えませんでした。何故なら私に関係する議案が審議されて、可決でもしたら、私の戒規免職のプロセスに関わった人たちは当然その責任が問われるからです。雲然現教団議長は、私に免職処分を下した教師委員会の委員の一人で、私の調査員長だったのです。調査員長の雲然さんの名で私に3回面談の要請がありましたが、私は、紅葉坂教会が総幹事を通して信仰職制委員会に「教師委員会の内規は教団規則に該当するか」と「先例集96が暫定指針であるならば、『未受洗者陪餐について』の答申も暫定指針ではないか」という諮問を出しているので、その答申がでるまで面談を待ってもらいたいと、3回とも調査員長と教師委員会委員長宛てに手紙を出していました。けれども調査員会は私と一度も面談することなく、2010年1月26日に教師委員会は私を免職処分にしているのです。今回私に関係する議案を上程できない理由として雲然議長が挙げたのは、戒規施行細則第6条に従って最終決定されているからと言うのです。今回の議案は私の免職処分の撤回ではなく、免職処分に至る手続きが公正・中立という点で、著しく疑わしいので審理のやり直しを求めるというものです。それを規則に従って最終決定されたのだから再審理は出来ないというのです。この理屈だと、手続きがどんなに不当であっても、規則に従って最終決定され以上再審理はできないということになります。国の裁判でも裁判の判決が間違っている疑いがあるならば、再審請求ができ、再審理の結果無罪ということもあり得ます。袴田さんのように。けれども雲然議長の論理からすると、教団は中世の暗黒裁判をこの現代においてもしていることになりはしないでしょうか。自分の否を認めず、ひたすら自己正当化を謀ろうとする者の姿は哀れです】。
その他にも今回の教団総会をリモートで傍聴していて、問題を感じた点を述べてみたいと思います。
- 議案第6号「常議員選挙に関する件」が上程された時に、この常議員会提案の議案の内容が「教規の規定により教団総会議員の内より常議員27名を選挙する。/選挙方法については、予備投票を行なわず、全数連記の投票とする」となっているので、関連議案の議案第44号「常議員選挙を半数連記で行う件」が先議されました。採決の結果少数否決で常議員提案の全数連記で常議員選挙が行われました。
私はこの常議員会提案の全数連記に疑問を持っています。他の教区総会での教団総会議員の選挙方法がどのようなものであるのかは知りませんが、少なくとも神奈川教区総会では少数連記で教団総会議員を選挙しています。もし神奈川教区総会での教団総会議員選挙が全数連記で行われますと、現在神奈川教区総会で選出されて教団総会議員になり、教団総会で常議員に選ばれている方は、そもそも神奈川教区総会で教団総会議員に選出されませんので、常議員になることはできません。神奈川教区総会の教団総会議員の選挙方法が全数連記の場合、現在神奈川教区総会から選ばれている教団総会議員28名の内10名は教団総会議員に選出されません。本来この10名の方々は教団総会で常議員選挙の方法が問題になった時には、全数連記ではなく半数連記(少数連記)に手を挙げるべきではないでしょうか。
このように神奈川教区総会の教団総会議員選挙の方法(少数連記)と、教団の常議員選挙の方法(全数連記)はダブルスタンダートの状態になっています。教団という一つの組織の中でこのようなことがあること自体おかしなことではないでしょうか。もしこれがおかしくないとするならば、教区と教団は対等な別々の組織体ということにならざるを得ません。現在の教団の実態は正にそのような状態にあると思われます。組織体として教団は教区の上部構造になっていますが、実体は教区連合体になっているのが教団の現実です。教団が合同教会であるとすれば、教団は統一体ではなく多様体であるはずです。しかし、現在の教団中枢は多様体ではなく統一体としての教団形成を目論んでいます。それは、多分長老主義教会である連合長老会が主導し、70年代にできた教団政治の党派性をもった福音主義教会連合が追随して現在の教団のイニシアティブを取っているからだと思われます。今回の教団総会に議案第30号「日本基督教団の全体教会としての一体性を確認する件」という議案が、常議員会が提案者となって出ているのも、その証左と思われます。この議案の内容はそもそも合同教会としての教団に求めるべきものではありません。合同教会としての教団は多様性と豊かさにその特徴があるのであり、長老主義教会のような全体教会の一体性に特徴があるのではありません。そもそも教会の制度的な伝統からすれば、長老主義、監督制、会衆派の諸教派の諸教会が国家の圧力によって合同させられてできたのが日本基督教団です。戦後国家の圧力から自由になって、しばらくして教団には会派問題が起きました。合同以前の教派的伝統に教団から出て戻る会派がいくつか出たのです。長老主義教会の一部は教団から出て日本キリスト教会(新日基)になりました。会派問題以降も教団に留まった教会は合同教会としての日本基督教団を選び取った教会と言えると思います。その中に教団から出なかった長老主義教会もあります。
1954年の教団信仰告白の制定は、多様性を認める合同教会としての日本基督教団のその一員として日本基督教団に留まった長老主義教会へのリスペクトとして考えることが出来ると思います。信仰告白による一致を生命線としている長老主義教会にとって日本基督教団に信仰告白がないことには耐えられません。けれどもその日本基督教団信仰告白は一つの信仰告白、一つの信条であって、教団の全ての教会が受け入れなければならないものではありません。そもそも会衆派の教会には全体を統一するような信仰告白や信条はありません。合同教会としての日本基督教団はその多様性を認め合うことによって成立しています。
それが最近は教団信仰告白、教憲教規による一致による教団の統一が一部の側から叫ばれていますが、そのことはそもそも合同教会としての教団の多様性とその豊かさにそぐわない主張なのです。常議員選挙を全数連記にして、多数派が独占し、自分たちの思い通りの教団にしようとすることそのものが傲慢なことなのです。
(以下鶴巻通信33号に続きます)