なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

復活節第2主日礼拝説教「希望に生きる」Ⅰペテロ1:3-9

4月27日(日)復活節第2主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。   (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌    205(今日は光が)

https://www.youtube.com/watch?v=AiXb2QVdWxY

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編116編1-11節(讃美歌交読文128頁)

⑥ 聖  書   ペテロの手紙一 1章3-9節(新約428頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      511(光と闇とが)

https://www.youtube.com/watch?v=4tf73DNzHYg

  •  説  教  「希望に生きる」           北村慈郎牧師

 

私たちは毎日曜日礼拝において神を賛美しています。

 

神を賛美するということはどういうことなのでしょうか。私たちの生活が神への賛美によって支えられているということではないでしょうか。

 

そのことは、イースターの礼拝説教でもお話ししましたように、私たちは人間の時刻表を生きると共に、神の時刻表を信じて、それを大切にして生きるということではないでしょうか。

 

先程司会者に読んでいただいたペテロの手紙一の1章3節前半には、その神賛美について記されています。そのところをもう一度読んでみます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」。

 

神賛美は礼拝で行なわれていますが、神賛美は礼拝に限られるものではありません。キリスト者の生活全体が神賛美によって支えられているのであります。そのことがはっきり語られている聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙12章1節、2節ではないかと思います。その箇所も読んでみます。

 

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。あながたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:1-2)。

 

このパウロの言葉には、キリスト者の日常的な生活そのものが神賛美であることが明確に語られています。けれども、私たちの生活はどうでしょうか。このパウロの言葉のように生活しているでしょうか。

 

自分自身の生活を振り返って見ても、日々の生活が神賛美の生活に徹しているとは、なかなか言えないところがあります。上っ面の見せかけと偽善や、生きる勇気を打ち砕く空しさと絶望に負けてしまうことも、ないとは言えません。

 

たまにですが、普段私は独りで生活していますので、夜布団に入る時に、帰天した連れ合いに、何故先に逝ってしまったのかと問いかけ、こんな問題だらけの世の中を早くおさらばしたいと呟いたりすることがあります。そういう自分は、まだこの世に生かして下さっていて、私に何らかの使命を与えて下さっているに違いない神に、ある意味で恨み節を投げかけていることになるわけです。それは、この現代の社会を生きる者として、虚無と絶望に私の心が負けそうになっている証拠ではないかと思います。

 

ある人は、私たちの人生には三つの段階があると言っています。第一の段階は、表面的に見える私たちの生活です。それは、きれいごとであり、気どった偽りと見せかけの生活であると言うのです。

 

私はテレビで観るのは、ニュース以外はスポーツとサスペンスがほとんどですが、サスペンスでは見せかけのセレブな生活をしている人物がよく登場します。その平和でお金に何不自由しない生活をしている人に、突然事件が起こって、その人が不安と絶望に突き落とされるという設定です。

 

私たちの中には、この私たちの人生の第一段階を幸せに生きていきたいと願っている人が多いのではないでしょうか。中には、自分がそのように生きて行くことができればいいいと割り切って、他の人のことは考えないという人もいるでしょう。

 

人生の第二段階は、この表面の下にある生活で、罪の死によって支配された虚無、暗い絶望、生きる勇気を打ち砕く生活です。

 

表面的な生活を幸せに過ごしている人は、虚無と絶望に出会うことはないかもしれませんが、その人の生活にもこの第二段階は、気が付いていないだけで存在しています。

 

社会への適応が困難だったり、貧困や病気、差別などによって苦しまなければならない人は、この人生の第二段階である虚無と絶望に直面させられるのではないでしょうか。それは大変厳しいことです。そのように苦しんでいる人々が、現在の世界には満ちているように思われます。

 

そして私たちの人生の第三段階は、第一、第二段階の層の下にもう一つの現実としてあります。それは、復活のイエスによって与えられた新しい生の現実です。この復活のイエスによって与えられた新しい生の現実は、表面の第一段階の偽りの生活を真実なものに変えてゆく源泉であり、第二段階の虚無と絶望を克服する力でもあります。

 

ですから、ペテロの手紙一の著者は、この第三段階の生の現実が復活のイエスによって私たち全ての人生に与えられているが故に、私たちは、復活のイエスの命によって新しく生まれ変わり、希望をもつことができると言うのです。

 

勿論、この第三段階の生の現実が私たち全ての人に与えられているからと言って、それを信じなければ、その現実に生きることはできません。私たちキリスト者は、この復活のイエスによって与えられた生きる力によって、新しい存在としての生の現実を信じて生きていこうとしているのではないでしょうか。

 

1章3節前半の神賛美を語る言葉に続けて、この著者はこのように語っています。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生れさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(1:3節後半―4節)と。

 

希望は、復活のイエスによって与えられた生きる力、新しい存在としてのキリスト者の生の現実であります。

 

このペテロの手紙一の著者は、このようにも語っているのであります。「あなたがたは終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現われるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:5-7)。

 

この手紙の著者は、神を信じる者の道はその目的地である神の救いへと通じる一方通行路だ、と言っているのです。そしてキリスト者はその信仰によって神の救いへと通じるこの一方通行路を生きていくのだと言うのです。その一方通行路には試練があり、その試練に悩まされるかも知れませんが、その試練によって信仰が本物と証明されていくからだと。

 

そして、信仰による一方通行路の目的地は神の国であり、私たちすべてが神の国に生きることであります。このことが、イエス・キリストによって私たちすべてに神が与えて下さっている救済の出来事であると、この手紙の著者は語っているのです。

 

そして、この神の救済の出来事こそ、実は、預言者たちが探求し、原始キリスト教団の宣教者たちが告知した福音の内容であると著者はここで示しているのではないかと思います。その福音を信じて生きることができたのは、イエス・キリストが信徒と共にいるという確信でありました。それが初代教会のキリスト者の喜びであり、生き生きとして希望の源泉であったのです。そのことが8節、9節に記されています。

 

「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとしての魂の救いを受けているからです」(1:8-9)。

 

この復活のイエスによって与えられている希望とは、神の国の実現を信じる希望ではないでしょうか。

 

預言者イザヤは「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。/彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。/国は国に向かって剣を上げす/もはや戦うことを学ばない」と預言しています。

 

神の国には戦争はありません。ですから、ロシアのウクライナへの軍事侵攻もイスラエルパレスチナ人に対する軍事行動も、神の国にはありません。辺野古に新基地を建設する必要もありませんし、軍備を持つことも、ましてや強化することも必要ありません。

 

また神の国には、貧困や差別もありません。人間同士の支配・被支配もありません。人は誰でも皆神の子どもなのですから。

 

ですから、現在の世界のように国家や民族による分断と対立は神の国にはありません。また資本の支配も神の国にはありません。当然南北問題は神の国にはありません。環境破壊もありません。神の国においては、人間は自然との共生を生きるからです。

 

神の国は「義と平和と喜び」(ローマ14:17)だからです。

 

「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生れさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」は、神の国をめざして歩む私たちキリスト者の信仰による希望の生を言い表しているのではないかと思います。

 

私たちはこの現実の世界が神の国に変わるとは、とても思えないかもしれませんが、神は、イエス・キリストを通してこの世界を神の国に変えようとしておられるのだと、聖書は語っているのです。

 

先ほど私は、私たちの人生の第三段階である「復活のイエスによって与えられた新しい生の現実は、表面の第一段階の偽りの生活を真実なものに変えてゆく源泉であり、第二段階の虚無と絶望を克服する力でもあります」と言いました。

 

この私たちに与えられている「復活のイエスによって与えられた新しい生の現実」を生きることができますように!

 

主が私たち一人ひとりをそのように導いてくださいますように!

 

 

祈ります。

 

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

神さま、私たちが信仰をもってこの現実を生き抜いていくことができますようにお導きください。

神の国が到来し、この世界が義と平和と喜びで満たされますように!

今様々な苦しみの中にある人々をその苦しみから解き放ってください。

おごり高ぶる者を打ち砕いてください。

今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。

                                   アーメン。

讃 美 歌  470(やさしい目が)

https://www.youtube.com/watch?v=I0PQZ8eNk28

⑪ 献  金

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。