なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

復活節第5主日礼拝説教「束縛からの解放」使徒言行録16:23-34

5月18日(日)復活節第5主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。   (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌     3(扉を開きて)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-003.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編30編1-13節(讃美歌交読文30頁)

⑥ 聖  書   使徒言行録16章23-34節(新約246頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     60(どんなにちいさいことりでも)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-060.htm

⑨ 説  教   「束縛からの解放」           北村慈郎牧師

              
私たちは毎日曜日礼拝において神を賛美しています。この神賛美は、私たちキリスト者にとっては日曜日の礼拝だけに限られるものではありません。パウロはローマの信徒への手紙12章1節、2節で、私たちが神を礼拝するということはどういうことなのかについて記しています。その箇所の新共同訳の表題は「キリストにおける新しい生活」となっています。つまり、私たちキリスト者のあるべき生活について記されているところで、パウロは礼拝について触れているのです。その箇所を読んでみたいと思います。

 

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:1,2)。

 

パウロによれば、キリスト者である私たちの生活は神賛美であり、世に倣って生きるのではなく、神によって「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ」て生きるのだと言われているのです。それが神への礼拝であり、神賛美である、と言うのです。

 

パウロの影響を受けていると言われていますコロサイの信徒への手紙3章12~17節には、この神賛美であるのキリスト者の生活について、より立ち入って記されています。少し長くなりますが、その箇所も読ませていただきます。

 

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体にされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くし互いに教え、諭し合い、詩編と讃美と霊的な歌により感謝して神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行ない、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(コロサイ3:12―17節)。

 

(以下は、以前この礼拝説教で語りました使徒言行録の今日の箇所の講解説教とほぼ同じものですがお許しください。)

 

さて、今日の使徒言行録の記事は、フィリピの町で牢に投げ込まれたパウロとシラスの牢内での出来事が記されているところです。人が牢に入れられるということはどういうことなのでしょうか。例え何も犯罪と言えるようなことを犯していなくても、権力に逆らう者が牢に入れられるということは今でもあり得ることです。パウロとシラスの場合も、何か犯罪を犯して牢に入れられたわけではありませんでした。二人はイエスに倣って占いの女から霊を追い出したところ、その占いの女によって金もうけしていたこの女の主人たちが、逆恨みしてパウロとシラスを訴えて、その町の高官に突き出したので、高官は二人に鞭打ちの刑を与え、牢に投げ入れ、看守に厳重に見張るように命じました。看守は高官の命令を受けて、二人を一番奥の牢に入れて、足枷をはめておいたのです。

 

鞭打たれ、足枷を嵌められて、牢の一番奥に入れられた二人は、鞭打ちによる大きな苦痛に耐え、これからどうなるかわからないという不安を抱えていたに違いありません。にも拘わらず、二人は、「真夜中ごろ、賛美の歌をうたって神に祈っていた」というのです。そして「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」というのです(25節)

 

この25節の言葉からしますと、その時牢の中ではパウロとシラスを中心にして神賛美としての礼拝が捧げられていたと言えるのではないでしょうか。二人の賛美と祈りに、ほかの囚人は聞きいっていたというのですから、この礼拝は牢中全体での礼拝ということが出来るかもしれません。つまり、この時、人が捕らえられて投げ込まれ、監視人がいて束縛されている牢屋という場所が、礼拝の場所になったということではないでしょうか。私たちが毎日曜日行っているこのような教会堂における礼拝と、牢屋の中で真夜中に賛美を歌って神に祈ったパウロとシラスの二人による礼拝とは、神賛美という礼拝の本質においては何も違いがありません。

 

井上良雄先生は「「教会は何のためにあるのか」という題の説教の中で、「教会に平安を求めるのは、半分の真理であり、神の恵みによって平安を見出した私どもは、その恵みに対する讃美告白をしなければならない。それがもう一つの真理です。それを忘れてはならない。それを忘れるということは聖書のみ言葉を半分しか聞いていないということ、そして聖書のみ言葉を半分しかきいていないということは、全く聞いていないと同じです」と語っています。そして井上先生は、「神が本来イエスの復活で人間の歴史を終えてもよかったにもかかわらず、再臨までの時間を設けられたのは、神の恵みに対する人間の応答の声を聞くためであった、感謝の声を聞くためであった、讃美告白の声を聞くためであったということです。いま私どもが生きているこの地上の時間は、神の恵みに対する私どもの側の応答、感謝、讃美告白の時間として設けられているのだということです」とおっしゃっています。そのような意味で、パウロとシラスは、賛美の歌をうたい神に祈ったのではないでしょうか。

 

私たちは、私たちが生きているこの地上での時間が、神の恵みに対する私たちの側の応答、感謝、讃美告白の時間として、神によって設けられているということを忘れてはならないと思います。そのことを忘れて、私たちが生きているこの地上の時間を、ただ人間の営みの集積としてのみ受け止めるだけだとすれば、パウロとシラスのように、真夜中に牢屋の中で賛美の歌をうたい神に祈るという行為はあり得ないでしょう。牢屋の中に拘束されている不自由な状態の中で、私たちが出来るのはただ痛めつけられた肉体の苦しみと将来への不安にさいなまれることだけです。

パウロとシラスが「賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」時、「突然大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」(26節)というのです。パウロとシラスの神賛美と祈りに続いて、この地震が起こって、牢の戸がみな開き、囚人の鎖も外れ、牢からの解放という事態が告げられていることに注目したいと思います。

私はこの記事には神礼拝と牢からの解放が一つの出来事であるというメッセージが込められているのではないかと思います。神を讃美告白し神に祈る者は、牢に捕らえられていながら、その束縛から自由であるというメッセージです。

 

「突然大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」(26節)のを知って、「目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした」(27節)というのです。

 

囚人が脱走した場合、その受けるべき刑罰は看守に課せられるという定めがあったのでしょう。看守はもはや死刑を免れないと覚悟したのでしょうか。すると、「パウロは大声で叫んだ。『自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる』」と言って、それを制止したというのです。

 

「看守は、明りを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外に連れ出して」、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と二人に尋ねたと言います。二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答え、「看守と家の人たち全部に主の言葉を語った」というのです。そして、「まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」というのです。その後「二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族とともに喜んだ」と言われています。

 

この部分を読んでいますと、ルカの記述にはいろいろと飛躍があるように思われますが、ここでルカが語ろうとしていることは、看守とその全家族とが、奇跡的に入信したということではなかったかと思われます。イエスの福音を信じ、讃美告白する者には、パウロらがフィリピの町で経験しましたように苦難が伴います。この看守の家族は、その後どういう生涯を送ったのでしょうか。使徒言行録にはそのことは全く記されていません。恐らくその職は奪われ、かつての同僚たちの非難攻撃に、さらされたことでしょう。しかし、この看守の家族はそのような牢屋にしばられるような束縛から自由になって神を賛美する生活に喜びを見いだしていったに違いありません。

 

私たちは、今日もまたこのように礼拝を捧げています。礼拝はイエスの生涯と十字架の死と復活によって出来事となった神の恵み(福音)への讃美告白です。私たちがこの礼拝に与るということは、今日の使徒言行録の牢屋の中で起こった出来事に与っているということを意味するのではないでしょうか。神の恵みへの讃美告白が、牢屋の束縛に象徴されているこの現実社会のあらゆる抑圧にもかかわらず、その束縛からの解放を告げ知らせているという福音の事実です。この解放は、もちろん信仰による現実であって、即私たちが生きているこの現実社会の抑圧からの解放ではありません。しかし、私たちは、この信仰による解放の現実をもって、現実社会のさまざまな抑圧からの解放への業に与ることができるのではないでしょうか。

 

  • 主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

神さま、私たちがイエスを通して与えられたあなたの恵みに生かされて、神讃美の日々を生きることができますように、私たち一人ひとりをお導きください。

世界が対立と分断の中で軍事力による問題解決をめざす国もありますが、軍事力による問題解決はあり得ません。どうか対話による相互理解を通して、この世界を和解と平和へとお導きください。

今様々な苦しみの中にある人々をその苦しみから解き放ってください。

おごり高ぶる者を打ち砕いてください。

今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。

                                   アーメン。

讃 美 歌  471(勝利をのぞみ)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-471.htm

⑪ 献  金

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。