なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(112)

 さて今日は「父北村雨垂とその作品(112)」を掲載します。

                
             父北村雨垂とその作品(112)

 1964年(昭和39年)日記より(その5)


 2月23日

 最近はどうも体力がおとろえた様に想う。今日二十三日の日曜が待ちどうしかった。十時起床。朝食を摂る。N氏来訪。例の乙会を二十九日に彼の新宅でやりたいがどうかと言う。集合は午後六時という。結局五時と決定。雑談ののち歸る。彼の後ろ姿を見送ってゐるうち、なにか寒気がする。風は冷たかったが、その寒気ではない。老い込んだ彼の後姿が、そのまま私のそれと変らない筈である。I氏が死んだことを彼から聞いた直後だけに殊更にきびしく身に應えたのであらう。彼とはどちらが先に死んでゆくかは解らぬが、どちらが死んでも、後の寂りょう感は耐えられぬものがあることに間違ひない。最近は全く、惜しくないいのちと觀じ、人にもときに漏らすこともあるが、いまの寒気のするほどの寂りょう感は、觀念と本質との隔たりを無情に見せつけて呉れた様に想はれた。禅に於ける「無」の思想が果して私のこの本質と一体となり得るかどうか。

 花は紅い柳はみどりに間違いはないが、それは私にとって、あくまで觀想であって、私自体は花でもなければ柳でもあり得ないことは確かである。悟りとは所詮、ひとつの希ひであって、私のものとはなり得ないものだらう。觀想を振りまわすことも愚者のひとつの性癖かも知れない。

 2月28日

 なんと見事な野犬が歩くおぼろ月

 きう車往く今日も喜怒哀楽の街を

 雑艸の姿態です終電車の生態ですよ

 てんぐ茸べにてんぐ茸或る夜の街

 3月5日

 對流はしびれる路傍の男と女

 猫柳のつんぼが辯證の鐘を聞いた

 3月10日

 金を拾う返す善人だなと悔いる

 一九六四年青春の顔は犬の顔

 原色は乙女の夢だ白は矛盾

 雑草の生態をみた終車の姿態

 3月14日

 恐怖の中の無心 背景の青の中の桜花(花吹雪)

 無心の恐怖だ青い背景のさくら

 3月21日

 原色の夢女の夢 白は矛盾

 『路』研究吟として出した。某評者は理窟だと曰う。理が勝ってゐるとも曰う。さうかしら。理を消し てゐるつもりだが。理智の働きの面白さが解らぬらしい。勘九郎氏がどう評するか。

 雨に風に桜は性のルールを知らぬ

 4月2日

 はらはらと桜 嘔吐のうえに野犬(いぬ)の背に