なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(10)

 今日は、以前に教会の機関紙に書いた文章を掲載します。以下の中には、ちょうど2007年でしたが、私が当時の常議員会で教師退任勧告を山北宣久議長から受けた頃に書いた聖餐に関する文章も含まれています。 

                   牧師室から(10)

 九十年代初頭にアメリカとソ連を中心とした第二次世界大戦後の世界の冷戦構造が終わり、その後アメリカによる帝国的な単独行動主義がアフガニスタンでもイラクでも目だっていますが、それでは世界秩序の安定は望めません。日本はアメリカと安保(日米安全保障条約)を結んでいますが、現在の政府は 安保の見直しは殆ど考えていないようです。むしろ米軍再編によって米軍と自衛隊との一体化を進め、日米軍事同盟を強化しようとしています。この選択は世界平和からすると大変危険な選択です。

 世界は多極化に向かっています。現在EUヨーロッパ連合)が先駆けていますが、ASEAN一0ケ国に日本、中国、韓国を加えた東アジア共同体という地域統合の構想も動いています。このような地域主義が徐々に世界に広がっている現状において、政治学者の姜尚中東北アジア地域構想を提唱しています。経済圏としては日本、韓国、中国を中心とし、北朝鮮ももちろんその中に含まれますし、アメリカやロシアも東北アジアに深い関わりを持つ国として位置づけています。アメリカの一極支配に代わって多極化した世界での平和的安定が世界の将来を開くのではないかと思いますが、そのためには「日本のアジア化」に鍵があると姜尚中は言っています。アジア周辺諸国反日感情を真摯に受け止めて、戦争責任を果たし、アジアの一員として日本が周辺諸国と友好的な関係を構築するためには、「歴史認識」の問題を避けてとおることはできません。 
                                     (2007年2月)

 紅葉坂教会が聖餐式を未受洗者にも開かれた形で行うことを教会総会で決めたのは、一九九九年三月でした。それ以来現在のやり方で聖餐式を行ってきています。つい最近も神奈川教区のある教会は、私たちと同じように教会規則を教会総会で変更して未受洗者に開かれた聖餐式を行うようになりました。いわば受洗者だけではなく誰にでも開かれた聖餐式が教団に属する教会の中で数は多くありませんが、自覚的に行われるようになったのは、一九六0年代後半からです。一九八三年頃から教団の正式の機関である宣教研究所が、聖餐に関する研究を数名の委員に委嘱し、その研究結果が一九八七年にまとめられて『聖餐』という本になっています。その本の序文で土肥昭夫氏は、「ほとんどの教区において教会・教職・聖礼典に関してさまざまな見解の相違と対立」があることを述べ、「このような相違や対立はやむを得ないことだと割り切って、問題を回避したり、いい加減なところであいまいな調停をはかるのではなく、合同教会が持ち得るある種のしなやかさとしたたかさをもって問題をともに論議し、これを掘りさげていくうちに、共通の基盤も生まれ、相互の理解にも到達するのではないか、と思われるのである。」と所見を記しています。この土肥昭夫氏の所見が日本基督教団という合同教会のとるべき姿勢ではないかと、私は思っています。

 そう簡単には何が正しいのかは決められないと、私は思うのですが。
                                    (2007年8月)

 先日キリスト教入門講座にはじめて出席された私ぐらいの年配で、仕事はコンサルタントをされているという方が、この歳になって人間の軸としての宗教の大切さを感じ、宗教の中でも仏教よりも深いと思われるキリスト教を知りたいと思い、外の掲示板で入門講座があることを知り参加した、と言われました。また、入門講座にはじめからずっと参加されている若い方と、最近参加するようになったもう一人の若い方とお話をしていて感じることも、この年配の方と同じように求める思いが強いということです。たまたまこの若い二人は、キリスト教を含めた宗教への胡散臭さは余り感じておられません。身近にクリスチャンの方がいたりして、教会の敷居もそうは高くなかったので、教会の礼拝に出席し、入門講座にも出ておられるのだと思います。オーム真理教の事件以来宗教の胡散臭さが若い方々とその家族の中に広がっている上に、私たち教会の側にもインパクトが弱く、消費・情報社会という高度資本主義社会にあって悩み迷える多くの方々に、私たちは聖書とイエスから人間として生き抜く道と命の力を十分に提供できないでいるように思います。

 私はそういう教会の弱さを踏まえた上で、キリスト教入門講座を開設しました。期待をもってこの講座に来られる方に出来る限り失望落胆させることなく、来られた方の悩み迷いをできる限り共有しつつ、それこそ人間の軸になるものを求めて、この入門講座を続けていきたいと思っています。
                                     (2007年10月)

 先日大阪教区社会委員会主催の集会が浪花教会で行われ、私は講師に招かれました。半分は教師退任勧告を受けている私からその話を聞きたいということもあり引き受けました。メインのテーマは「寿(横浜)からの報告」ということで、神奈川教区寿地区活動委員会の委員長である私にということでした。大阪には愛隣地区(釜ケ崎)があり、キリスト者寄せ場での働きは寿地区よりもずっと早く、寿地区の働きから教えられるものは殆どないのですが、ただ寿地区センターは教区が設立していて、献金による支援が多いということもあり、大阪教区社会委員会としてはその点の話が聞きたかったようです。

 私は寿地区の歴史、寿地区センターと神奈川教区との関わり、寿地区センターの働きと課題などについて資料を用意して話しました。この集会のチラシには「北村慈郎牧師から(寿地区センターの)活動、教会と信仰に関してお話を伺います」とありましたので、最後に寿との関わりにおける私の姿勢について話しました。それは支援の相互性ということです。「一つは、日雇い労働者、野宿者の生存と生活がこの社会で守られるための支援者による支援である。もう一つは、支援者が日雇い労働者、野宿者の視線を受けて、人から生存と生活を奪うこの社会の矛盾に気づかされ、この非人間的な社会に生きる自らの人間としての尊厳を回復するための日雇い労働者、野宿者による支援者への支援である」。

 集会ではこの点にも共感を得ることができ、行ってよかったと思っています
                                     (2007年12月)