なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(143)復刻版

        黙想と祈りの夕べ通信(143[-38]2002.6.23発行)復刻版

 今日の説教の中で、ローマの信徒への手紙1章26節以下に記されています同性愛について触れました。以前自分が同性愛者であるということをカミングアウトしている方の話を聞いたことがあります。その方は男性ですが、小さい頃から異性への興味、関心がほとんどなく。同性への興味、関心が強かったとおっしゃっていました。この方がそういう自分自身の性的指向性をありのままに自分自身で受け入れることができるまでには、相当苦しまれたに違いありません。
 
 セクシュアリティーの問題は、大変微妙で難しい問題を含んでいるように思います。基本的には他者に対する抑圧的な形で現われなければ、その人のもつ性的指向性をありのままに受け入れていくことではないでしょうか。私自身の原則的なスタンスとしては、そのように考えています。そのためには、社会的に、男は、女は、と言われている観念を出来るだけ相対化していきたいと思っています。けれども、そのことは日常的には大変難しい課題です。たとえば、最近教会では葬儀の奉仕者を募っていますが、その書き込み用紙の中にある男性と女性の働きが違っています。献花は女性の仕事ということになっています。葬儀奉仕者の仕事の男女配分において、無意識のうちに献花は女性の仕事という観念が私たちの中にあったのでしょう。役員会でもこの用紙の原稿が回されて、私も目を通したのですが、その時は気づけませんでした。

 上記は当日の私の発言に少し付け加えさせてもらいました。続いて一人の姉妹の発言がありました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスの言葉から、日曜学校のお話しをされたHさんは、毎日が大変忙しいと言う。勤めの仕事は持っていないが、頼まれ仕事はできるだけ引き受けるというポリシーでしばらく行こうと決めたところ、PTA、子ども会、町内会の役員を引き受けて、現在オーバーワーク気味で疲れていると言う。学校での話題では、現在子どもたちも大変疲れている。学校の教師も疲れている。たとえば子どもたちは給食の時の食べ方、牛乳の飲み方のマニュアルがあり、それを一つ一つこなしておくことに疲れてしまっている。

 このような疲れは、自由な発想で主体的に何かをしていくというのではなく、上からこうしなさいと押し付けられ、いやいやながらそれをしているところから来るように思われる。聖書にも人を縛るところがあるのではないか。創世記の男女の創造物語における男と女、子孫の繁栄が祝福であると考えられていることなど、結構人を疲れさすのではないか。こうあったらとか、こうあらねばならないということになると、福音の豊かさではなく、疲れさすものがあるのではないか。社会通念や常識を越えて、自由な発想で聖書を読み返し、豊かさを追い求めていきたい。同性愛のことも一般社会の方がオープンになっていて、教会が遅れているところがあるように思う。少数者のために祈っていきたい。

 また一人の兄弟が、沖縄の問題について発言してくれました。現在の日本の安定と繁栄は日米安保によるものであり、その日米安保によって日本の基地の75%と米軍の60%が沖縄に置かれている。第二世界大戦の中でも最も悲惨だったとされる沖縄線のことも含めて、沖縄に犠牲を強いて私たちの現在はあると言える。胸が締め付けられる思いだ。その意味で、沖縄の問題は私たち自身が当事者であることを自覚しなければならないと思うと。

         
            喜ばしい交換(『ルターの日々のみことば』より)

  それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるもので  ある。  ローマ3:22

 信仰は魂を導いて、恵みにみちた、自由な祝福された神のことばに似たものとするだけでなく、花婿とその花嫁のように、魂をキリストに結びつけます。この結婚によって(パウロもエペソ5:31に言っているように)、キリストと魂が一体となります。この結合のうちに両者は、良きもあしきも、すべてのものを共有します。それによって、キリストに属しているものが今や信じる魂に属し、魂に属しているものが今やキリストに属するようになります。キリストはあらゆる良いものと祝福を持っておられますから、これらのものが今や魂に属するようになります。魂は罪とみじめさの重荷を背負っていますが、これらのものは今やキリストに属します。

 さてここで、喜びに満ちた交換と戦いがはじまります。キリストは神と人であり、罪を犯さず、そのあわれみは無敵で、永遠で、全能でありますから、信仰という結婚指輪によって、あたかも自分が犯されたかのように、信じる魂の罪をご自分に負われるとき、それらは主のうちにのまれ、溺死してしまいます。主の無敵の義は、あらゆる罪よりも強いからです。このようにして、魂は結婚持参金によりすべての罪からきよめられます。すなわち、信仰によって自由とされ、かせをはずされ、花婿であるキリストの永遠の義を与えられます。
                        キリスト者の自由について