なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(134)

 今日は「父北村雨垂とその作品(134)を掲載します。


              父北村雨垂とその作品(134)

 原稿日記「一葉」から(その17)

 天国の嫁に 地獄は 火を産みに

 これは藍の四號に 発表したもので、その作品についての配慮のあらましは 集句101頁に書いておいたが、念のため慈郎に来浜(横浜に来る)の節依頼しておいたが、今日やうやく来信あり。大体間違がなかったので安心した。と同時に 作品は次の通りに改めることにした。

 Der(てん) Himmel(ごく)の嫁にDie(じ) Ho(ご)((く)・・)lleは 火を産みに

(この句の下に、天国と地獄のギリシャ語、ラテン語、ドイツ語が並列して記しています。「慈郎に対し感謝の意を表す」と欄外に付記してあります。父にギリシャ語、ラテン語、ドイツ語の天国と地獄を尋ねられたのだと思います。)

 傳統は吾々にとって飽くまでも尊重すべものであることは、 何も殊更に断るべき性質のものでは無いと曰ふことは常識的にもそうである。而し、それは 眞の意に於ける傳統を把握して、それを継承することが大事であることをおろそかにしてはならない。

 川柳に於ける傳統も亦而りと曰わざるを得まい。だが而し吾々川柳界に於て、果たして川柳に於ける表明して来て居たであらうかとなると、いささか不安を感ぜざるを得ない。

 眞に傳統を理会することは、一言で曰えば、その傳統と考えられるものの核心を把握することであって、これは決して容易な問題ではないのであり、川柳界に於て、よく言ふところの三要素などと簡単に片付けられるものではなく、再三にわたって仔細に考慮すべきであらう。それに傳統を受け継ぐことと、傳承とは全くの他者~よそもの~であると曰うこと、これも常識の圏内に属すると考えられる。傳統を尊ぶことは郷愁に似て非なるものである。また、鳩や蜜蜂にみる帰巣性の様なものとは似て非なることも瞭らかである。吾々は改めて傳統の正しい構造を検討し、川柳の正しい在り方を見定めて前進する様決意すべきである。

 眞に価値ある傳統、生命のある傳統とはと問われた場では、私は矢張り、傳統も亦弁証法的構造による非連続的連続なる継承を構想せざるを得ない。
                     1979年(昭和54年)5月4日   雨垂考

註:体調不良のために中止、後日倖に好日あれば、改めて深く探求したいと欲張ってゐる。

 正直に 馬鹿な帽子(ぼうし)をラクスム氏

 太陽に 眞昼を聞けば 青 赤 黄

 教会も寺も無用と 逃げまわる

 善悪の中州(なかす)と案山子 流れ―流れ


 タンカーと月の非情を みをつくし


 夢に会う 初恋の帰(ひと) 現在も稚(わか)き

 おもいでの児に 歩を選ぶ 萩の道

 瞭らかに 老醜と描く 私の鏡


 七色に 力(チカラ)をあばく 盲の 時計

 力と意志の神話を砂漠(ゴビ)に ゴキブ」に

 力と意志の 神話をゴキブリ 砂漠(ゴビ)に聴く

 水平の頂点に停つ 涙の海

 水平の頂点に停ち 海と泣く

 水平の頂点に停ち 泣くことなし


 亜希子 浜木綿 葦名狐は嫁に行く