なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(491)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(491)復刻版を掲載します。2009年2月のものです。

 辺野古のことが気になり、毎晩「辺野古浜通信」で現地の状況を見ています。抗議行動も映像でみるこ

とができます。抗議する沖縄の方々の一つ一つの言葉が身に沁みます。今ぼくのできることは、こちら

から辺野古に行く人にカンパするくらいですが、9月1日(月)の防衛省前抗議行動には参加したいと

思っています。


        黙想と祈りの夕べ通信(491[-20]2009・2・15発行)復刻版


 2・11第4回「思想・信教の自由を守る日」横浜地区集会が六角橋教会であり、私も参加しました。

この会は、横浜地区ではある時期から独自の集会を持たなくなり、2・11県民集会に参加するように

なっていました。けれども、県民集会への参加は少なく、地区としての独自の活動が必要ではないかと

いう有志の実行委員会が4年前から横浜地区の2・11集会を持つようになりました。紅葉坂教教会で

回、上大岡教会で1回、そして今回六角橋教会で4回目が行われました。実行委員会と言っても、横浜二

ツ橋教会のTさんが中心になって成り立っています。今回は六角橋に行ったK・Eさんや六角橋教会の牧師

K・Sさんの働きがあって、国際基督教大学の教養部教授で西欧政治思想史、政治理論を専攻しておられ

る千葉眞さんを講師に、「世界人権宣言と現代」というテーマの講演がありました。千葉さんは、人権

の最も素朴な定義として「人間が人間の尊厳にふさわしい生活をする時、最低限保障されなければなら

ない法的規範」と言われました。その人権が、近代になってイギリスの市民革命、アメリカの独立革命

フランス革命などによって、個人的自由、市民的および政治的自由・平等権などの自由権、経済権、文化

権、教育権などの社会権として獲得されてきました。その過程には多くの人の努力と犠牲が払われてい

ます。1948年第3回国際連合総会で採択された世界人権宣言を読んで見ますと、現代の日本は、世界人権

宣言からかなり後退していっているように思われます。谷川俊太郎訳の世界人権宣言第3条 安心して暮

らす 「ちいさな子どもから、おじいちゃん、おばあちゃんまで、わたしたちはみな自由に、安心して生

きていける権利があります」。第22条 人間らしく生きる 「人には、困った時に国から助けを受ける権

利があります。また、人にはその国の力に応じて、豊かに生きていく権利があります。第23条 安心して

働けるように 「人には、仕事を自由に選んで働く権利があり、同じ働きに対しては、同じお金をもらう

権利があります。そのお金はちゃんと生活できるものでなければなりません。人はみな、仕事を失わない

ように守られ、だれにも仲間と集まって組合をつくる権利があります」。これらを読んで見ても、現代の

日本はいかに人権宣言から後退してかが分かるでしょう。同じ仕事をして、正規雇用者と非正規雇用者の

賃金に大きな差があるのですから。この人権宣言から逆行する動きを阻止して、次の世代に引き渡す責任

が私たちにあるように思いました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。自分も2・11の集会に参加した。人権が守

られるような世界でありたいと思った。世界人権宣言を新鮮に感じた。むしろ現代はその人権宣言を新た

に作り直さなければならい大変な状況にあるのではないか。それほどいろいろな所で人権が侵害されてい

る現実があるように思われる。神奈川教区の場合も教区形成基本方針があるが、それを作る時は大変だっ

たろうが、最近見直しが問題になっている。使徒信条にしても旧約の律法にしても、そのような規範が何

のために作られたかが大切ではないか。今日の聖書朗読の箇所マタイによる福音書20:1-16のぶど

う園の労働者の譬えの中で、雇い主である神が「わたしはしてやりたいのだ」と言っている。「わたしは

したい」と言う場合、わたしはあれをしたい、これをしたいというあくなき欲求がある。「わたしはして

やりたい」は相手のために何かをしてあげたいということである。全ての人たちが「わたしはしてやりた

い」という思いを持って生きたら、宣言や規則のようなものがなくても、相手のことを考えられるのでは

ないか。そうなったら素晴らしいと思う。隣人を中心に、お互いに思いやりあえたら、規則も何もいらな

いのではないか。「わたしはしてやりたい」という言葉が響いた。

   

       「私たちを家族、友人にしてくれる食事」   2月15日


 生きていくためには食事をし、水を飲む必要があります。けれども食事をとるということは、飲食以上

のものです。食事をとるということは、私達が分かち合っているいのちという贈り物を喜び祝うことです。

共にする食事は、最も親密で聖なる、人間らしい行事の一つです。食卓を囲むと、無防備なものとなり、

お互いの皿やコップを満たして、食べて飲むように勧めたりします。飢えや渇きを満たす以上のことが、

食事の時に起こります。食卓を囲んで、私たち家族、友人、一つの仲間となり、さらに、一つの体とな

るのです。

 そういうわけで、食卓の「準備をする」ということはとても大事です。花やろうそく、色とりどりのナ

プキンなどすべてのものが、互いに次のように言い合えるよう促してくれます。「私たちにとってとても

特別な時間です。さあ、一緒にいただきましょう」と。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)