黙想と祈りの夕べ通信(490)復刻版を掲載します。2009年2月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(490[-19]2009・2・8発行)復刻版
2月4日の水曜日は黙想と祈りの夕べではなく、第一水曜日でしたので祈祷会でした。婦人会の解体後、それ
までは祈祷会奨励司会担当者はエイジグループから選ばれていましたが、その後は役員会から委託されて私が
頼んでいます。2月の担当者を頼むのを失念してしまいましたので、私が担当しました。その時お話した内容
をまとめてみたいと思います。
昨年11月はじめに出版社の方から今までのものをまとめて本を出しませんかという話が突然来ました。その
少し前に自分の考えていることを公表しようかという想いがあったものですから、出版者の求めを受けて、ま
とめてみることにしました。その中に自分の考えがどう形成されてきたのかが分かるように自分史みたいなも
のも入れるようにとのことでしたので、たまたま昨年夏関西で発題したものに自分史を振り返った部分があり
ましたので、それを使うことにしました。実は私は今年3月が終わりますと、牧師になってちょうど40年になり
ます。また、高校3年生でこの教会で洗礼を受けましたから、キリスト者として50年になります。その間多分日
曜礼拝を休んだのは、数回ではないかと思います。そういう形でずっと教会に関わり続けることができたのは、
思えば不思議な導きです。そしていろいろ自分の書いた古いものを読んだりしましたが、そこで感じたことは、
自分の若い時の問題意識は、今でもずっと変わらないものだということです。むしろ、この40年間牧師として
考え実践してきたことの殆どは若い時の問題意識によっているということです。私はこの教会で1974年4月から
1977年3月まで伝道師をK牧師の下でしましたが、その頃週報のコラムは、今のように信徒が書くのではなく、
主任牧師である上泉牧師が毎週書いていました。K牧師は1976年12月のクリスマスを終えて、福岡の教会に転任
して行かれました。私は次の牧師が着任する1977年4月までの3ヶ月間教職としては一人でした。その間何回か
週報のコラムを書いています。今回出版する本の中に入れましたが、随分思い切ったことを書いています。そ
のコラムでの問題意識は、殆ど今でも変わっていません。
さて今日読んだ聖書はガラテヤの信徒への手紙3章26-29節です。そこに、「・・・・ユダヤ人もギリシャ人もな
く、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだか
らです」という最初期の教会の平等主義を示す言葉があります。パウロが受け取った伝承の一つではないかと
思います。しかし、同じ内容の言葉がコリントの信徒への手紙一、12章13節にも出てきますが、そこでは「男
も女もない」という部分が削除されています。そして同じコリントの信徒への手紙一、11章2節以下には「礼拝
でのかぶり物」について記されていて、そのところでは明らかに女性が男性よりも一段低く描かれています。
父権制的なローマ社会の中での妥協かもしれません。こういうイエスの福音によるあるべき姿を貫こうとして、
抵抗が大きいときに、少しトーンダウンせざるを得ないということがあります。そういう聖書が語る福音と私
達の日常の現実とは、ストレートに結びついていて、何の抵抗もないというのではなく、むしろ両者のギャッ
プ・葛藤を、私たちは引き受けなければならないのではないでしょうか。そのギャップ・葛藤をどう埋めてい
くのか。福音の指し示す方向で現実を変えていくのか、現実の厳しさのゆえに、福音の指し示す道を曖昧にし
てしまうのか。私たち一人一人がその証言者なのではないでしょうか。出来ることなら、福音によって現実を
変えていかれたらと願うものです。
「心にかける~すべての治療の源」 2月8日
心にかけるとは、治療とは違う何か別のものです。治療は「変化」を意味します。医者や法律家、聖職者やソ
ージャルワーカーなどは、人々の生活に変化を起こそうと、その専門的な技能を使いたがります。どのような
種類の治療をしようとも、それに対しては報酬が得られるのです。たとえ、それが望ましいものであったとし
ても、治療は往々にして、暴力的で小手先のものになってしまいがちです。 “心にかえける”ことからなさ
れない時、破壊的にすらなってしまいます。心にかけるとは、共にいること、共に泣くこと、共に苦しむこと、
共に感じることであり、痛みを共にすることです。心にかけるとは、他の人が自分の兄弟姉妹であり、自分と
同じような、いつかは死ぬ運命にある、か弱い人間であるという真理を大切にすることです。
心にかけることが第一の関心事であるなら、治療というものは恵みとして受け取りやすいでしょう。治療する
ことが出来ない時でも、心にかけることは出来ます。心にかけるとは、人間らしいあり方です。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)