なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(77、復刻版)

 昨年秋ごろから私の免職問題で裁判を起こす準備に追われて、現在本訴公判の日程が決まるのを待つ段階に来ています。少し気分的にも余裕が出来たところで、昨年来私のところに送られて来ている文書類に目を通していました。その中のあるグループの機関誌に、私の裁判へのある種の批判が載っていました。その内容を私なりにまとめてみますと、私の裁判は、教団の民主化という点では意味があるとしても、キリスト教会の中で教師が信徒から区別されて制度化され特権化されてきたという「教師」の問題性が、この裁判によって隠されてしまうのではないかというものです。私の裁判には、確かにその危険性はないとは言えません。私自身教団の正教師という「地位」(身分?)にこだわっているわけではありません。正教師になったのも日本基督教団に所属する既成教会を場にして飯を食って生きてみようと、若い時に決めたからです。その日本基督教団の中で教師として40数年歩んできて、教団の余りにも不当な仕打ちで教師を免職になり、このまま信徒として仲間と共に自然体で開かれた聖餐をやり続けるということで、この問題をやり過ごしてしまったら、何か悔いが残るのではないかと思ったので、裁判という手段に訴えて、日本基督教団という制度的な教会の問題性を明らかにしたいと考えたのです。歴史的にキリスト教会は統合と統制に逆らう者を排除してきたので、教会はそういうものだという気持ちもないわけではありませんが、その制度的な教会で教師として長い間飯を食ってきた者としては、制度的な教会の枠組みの中で最後のあがきをしてから、次を考えようと思った次第です。私の裁判が「教師」の問題性を隠蔽することにならないように、そのことも出来るだけ自覚して裁判に臨んでいきたいと思いますので、ご支援をよろしくお願い致します。
 
          黙想と祈りの夕べ (通信 77[-25] 2001・3・18発行)

 3月11日(日)の「黙想と祈りの夕べ」は、8日(木)早朝に召された兄弟の葬儀(前夜式)のために休会させていただきました。ですから、当然11日の「黙想と祈りの夕べ」での「分かち合い」の発言を、いつものようにこの通信で紹介することはできません。そこで、3月の第一水曜夜の祈祷会の司会・奨励を私が担当しましたので、そこでお話したことを今回の通信に載せさせてもらうことにしました。

 私は、祈祷会の奨励で自分自身のことを話しました。それは、今後どのくらいになるかは分かりませんが、教会で牧師として働ける自分の残された時間をどう使うかということです。話のきっかっけとして、18年間の前任G教会での私の働きについて、G教会のある信徒の方が、ちょうど私がGを辞任してMに移って来た前年の10月に発行された、G教会の機関誌に書いておらえる文章を引用させていただきました。それは、G教会で試みてきた「共同牧会」について書いたものです。共同牧会とは複数教師による牧会で、原則的には主と副ということではなく、複数教師が教会の牧会に当たるということです。その前提には、以下のような教会観が求められます。 「教会の主は牧師ではなくてイエス・キリストである。では牧師は何をする人か。牧師の仕事の中では何よりも先ず、会員が自分で聖書を読む、その助けをする。それによって会員の自立をうながす、それが第一義であると思います。牧師さんが“俺について来い…”ではない。又信徒の側から言うと、何かと牧師さんにもたれかかると言うのではない」(上記G教会機関誌より、以下「」同)。

 実際には、G教会の共同牧会は躓いてしまいましたが、共同牧会の理念は現在でも妥当性をもっていると、私は思っています。この信徒の方は、このように書いてくれました。

 「共同牧会になじめないとする気持の中に、伝統的な牧師像への郷愁と言ったものがあるかと思います。これを一概に退けてしまうべきではないでしょう。しかし先に述べた様に、牧師の役目は自立する会員を助けるところにあり、たとえなりたくても牧師中心にならない、という所にあります。この点で得難い北村先生という人を私共は得ているのです。… /…私は私で、今は“個々の魂の救済”と“社会の救済”とはどの様にからみ合うかについて、牧師さんに助けられ乍ら皆さんと一緒に考えたいと思っています。こうやって、互いにぶつかり合い乍らなけなしのものを求めて行く、素晴らしい事となるのではないでしょうか」と。

 祈祷会の奨励を考えているときに、たまたまこのG教会の機関誌の文章を読み直す機会がありました。そして改めて自分が牧師としてM教会で与えられている課題を確認させられました。私は、最近説教をやさしく語ることを心がけています。それでも、昨年の「学びと語らいの集い」での発言にありましたように、私の説教は難しいという方があります。やさしく語ることも大切ですが、それ以上に、自分が一人の人間として現在の様々な問題と直面しながら、聖書と格闘し、聖書が何を語っているのかを聞くことが第一でなければならないと思います。その私の牧師としての作業が、ひいては諸兄姉一人一人の聖書との格闘に、いささかでも資することができればと思います。なすべきことはいろいろありますが、何よりもそのことに自分の残された時間を使いたいと、改めて考えさせられました。