なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(31)

   マルコ福音書による説教(31) マルコによる福音書8:22-26
       
・今日の記事は、マルコによる福音書のこの箇所にだけにしかありません。ここでの目の不自由な人に対するイエスの行為は、7:32以下に出て来た耳の不自由な人のいやしにおける行為と大変よく似ています。人々が障がいのある人をイエスのところに連れてきたこと、その障がいのある人をイエスが人々の中から外へ連れ出したこと、癒す時のイエスの複雑な身振り、唾を吐きかけ、故障のある部分にさわられたこと、沈黙の命令などが二つに共通しているところであります。ただここでは、イエスによる癒しと視力回復という事実のみが記されていて、癒された人や他の人々のこれに対する反応には、全く触れられていないところが注意を引きます。10:46以下のバルテマイの物語と比べてみてましても、10:46以下では盲人であるバルテマイの方が「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と、激しく叫び続けたというのですが、ここにはそのようなことはありません。イエスの癒しがどのようになされたのか、それに呼応して、盲人がどのように視力を回復したかということだけが述べられているのであります。

・古代中近東では、盲人が多かったと言われています。気候や風土との関係、つまり強すぎる太陽光線が原因になったり、砂漠的な風土が眼病の原因となるケ-スが多かったのでしょう。また、衛生や清潔についての無知によっても、眼病が悪化するということもしばしばあったのでしょう。バ-クレ-によれば、「膿でおおわれた両眼の上に、蝿がしつっこくとまろうとする情景は珍しいことではなかった」と言われています。イエスの時代、目の不自由な人がどのような生活を強いられていたのかについては詳しくはわかりませんが、バルテマイの場合には、「盲人の物乞いが道端に座っていた」(マルコ10:46)と記されていますように、多くの盲人は、人通りの多い道にすわって、物乞いしながら生活していたことが想像されます。

・またヨハネ5章によりますと、エルサレムにあるベテスダの池には、「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」と言われています。このベテスダの池は、一定の時間を隔てて周期的に熱湯、または水蒸気を噴出する温泉が沸き、薬効があると信じられていたからです。そのような人たちがどのようにして生活の糧を得ていたかは、恐らくバルテマイのように物乞いによってなのでしょう。「施し」が日常化していた社会であり、山上の垂訓の中で、イエスが「だから、あなたが施しをするときには、偽善者たちからほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。…」(マタイ6:2)と言っているくらいです。ですから、私達が考えるほどには、物を乞うて生きることが卑屈に受け取られてはいなかったかもしれません。今日のような福祉国家とか福祉社会ではなかった古代の社会では、ハンディを負っている人は、通常の労働による収入を得られませんでしたので、神殿の参道のような人通りの多いところで、物乞いをして生き延びていたと考えられます。しかし、盲人にとっては、目が見えるようになりたいという切なる願いは、生存の維持が保証されていたとしても、それで決して消えるものではないと思います。目が見えるようになって、自分の目でこの世界を見、人々の中で自分もまたその社会の営みの中に積極的に加わって行きたい、と願うに違いありません。そして、それが目が見えない故に不可能ではないか、と思われるとき、自分は結局何の役にも立たない人間なのではないか、という深い絶望感にとらことでしょう。そのような目の見えない人の一人が、イエスによって癒され「すべてのものがはっきりと見えるようになった」というのです。すなわち、イエスはそのような目の見えない人の願いに即する形で振る舞ったのです。

・このイエスの行為から、私達は何を聞くことができるでしょうか。マルコによる福音書の観点から考えますと、この目の見えない人の治癒がこのマルコの文脈に置かれることによりまして、前の弟子の無理解、特に8:18「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。…」と、8:27以下の信仰告白の記事とをつなぐ役割をもたされていることは明らかです。その関連から、イエスにとって、「見える」ということが何であるかが、暗示されているように思われます。8:18の「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」というイエスの言葉は、イエスのなさっておられる事も、イエスの語られた言葉も、理解出来ていない、イエスが見える世界が見えない弟子たちへの批判です。

・このイエスの物言いにおいては、目が見えるという人間の視覚がそのものとして肯定されていません。目が見える者の目は、イエスにおいては見るべきものを見ずに、あらぬところを見ている、というのです。物を見るのは目ですが、目について語ったといわれるイエスの言葉が山上の垂訓の中にいくつか記されています。その中にこういう言葉があります。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(6:22-23)という言葉があります。
目はその人の心のありようを忠実に反映しているというのです。だから、目によって、その人の全体が明るいか、暗いかがわかると、イエスは言われるのであります。

・また次のような言葉もあります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向って、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(7:3-5)。自分の目に丸太があって正しく物を見ることができない目であることを認めて、まず自分の目がはっきり見えるようにならなければならない、と言われているのであります。

・更に私達は、ヨハネによる福音書の9章の生れ付き目の見えない人の物語を思い起こします。9章のその最後のところに、イエスの言葉として「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ9:39)とあります。このイエスの言葉をそこにいて聞いたあるパリサイ人が、「我々も見えないということか」と問うたと言われる。「イエスは言われた『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しまし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちは罪が残る」」(ヨハネ9:41)と言われているのであります。

・イエスはひとりの目の見えない人の目を見えるようにされました。イエスによって目が癒されたこの人は、「何でもはっきりと見える」ようになったのであります。目の見えなかった人は、イエスによって目が見えるようになって、世界を見ています。その人が見ている世界は、目が見える人が見続けてきた世界と同じ世界であります。しかし、弟子たちやパリサイ人たちの目をもってとらえられた世界と、この目の見えなかった人が見えるようになって見た世界は同じでしょうか。私には違うように思われます。

・かつて私が牧師をしていた名古屋の御器所教会の信徒の方の中に、何回か目の手術を受けた人がいました。たちの悪い緑内障で、片方の目は殆ど見えない状態でした。その人がかつて目の手術を受けて、数日間両眼に眼帯をされて全く見えなかった状態から、眼帯がはずされて、そうっと目を開けてたとき、最初はボ-っとしか見えなかった周りの景色が、だんだんとはっきり見えるようになったときの感激と喜びをお話ししたときがあります。今まで見てきた景色とはまったく違って、新鮮に、本当にありがたく思ったと言うのです。見えるということが、どんなに大きな恵みであるか、その時に、その人は本当に深く感じたのでありましょう。

・道ばたで人から物を乞うことによって、生活がかろうじて成り立っていた目の見えない人が見えるようになってとらえた世界は、どのようなものだったのでしょうか。すべてのものが輝いて見えたことでしょう。そして、晴眼者がそれほどの驚きと喜びをもって、見えるというその事実を受けとめているのではなく、見えるということを当たり前に受けとめて、何の驚きも喜びも感じなくなっていることに、返って驚ろいたのではないでしょうか。そういう豊かな恵みをうけながら、それを恵みとして受けとめられない人々の倒錯した姿を知ったときに、目の見えなかった人は、何を思ったのでしょうか。「すべてのものがはっきりと見えた」という言葉を、私達はそのような目の見えなかった人が見えるようになって見た、その目を通してこそ、世界が真実に見通され得るというように読み取ることが出来るのではないでしょうか。

・目が見える人間からではなく、目の見えない人の開眼から「見える」ということを示そうとされるイエスは、決して目の見えない人を、晴眼者と比べてよりあわれむ者としては見ていません。「もしあなたが盲人であったなら、罪はなかったであろう」というパリサイ人への言葉によって、それがわかります。勿論、晴眼者と目の見えない人が全く同じであるということを安易に主張することによって、社会的な差別、宗教的な差別(・神の聖所を汚してはならない。身のきずのある者は近寄ってはならない。すなわち目しい、足なえ、鼻の折れた者、手の折れた者、せむし、こびと、目にきずのある者、こうがんのつぶれた者などである〈レビ21:18-19〉)を認めているわけではありません。

・目の見えない人は、自分の目が見えないことを知っています。しかし、目が見える人はそれを知りません。ですから、目が見える人は、見えるということの恵みとその豊かさへの感謝を忘れてしまいがちなのです。それに対して、イエスによって見えるようになった人は、見えることの素晴らしさと、その恵みに驚かざるを得ないのです。その驚きは、人が命を与えられていることそれ自身に対する驚きと喜びに極まるでしょう。目が見えるとか見えないとかという違いは、それぞれが命を与えられて今生きているという根源的な驚き、喜びのことを思いますならば、それほど大きなことではなくなるでしょう。それでも、見えるということが当然のことではなく、神によって与えられた恵みとしての驚きと喜びであるとされるならば、その見える恵みは自分だけのものでないことに気づかされるでしょう。そして見えるという賜物をもちいて、見えない人と共に生きるように促されるでしょう。

・「はっきり見える」というのは、この恵みの世界に私たちが共に生かされてあるということが「はっきり見える」ということなのではないでしょうか。目の見えない人の癒しにおけるように、イエスの恵みを受けることは、この世界が神の恵みに満ちあふれていることを「はっきり見える」ようになることなのです。マルコによる福音書の著者は、この目の見えない人の癒しの物語を、ここに挿入することによって、弟子たちの無無理解が、まさにこの神の恵みに満ちているという現実が見えないことにあるということを、間接的にしめしているのではないでしょうか。

・私たちも、この問題に満ち、悲観的に見える世界の中に、神の恵みの充満を「はっきり見る」ことのできる者になりたいと思います。