なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信42

        船越通信癸苅押  。横娃隠嫁1月29日   

・前回に引き続き、8日のテーマ話し合いに対するSさんの応答を、ご本人の了解を得ましたので掲載いたします(今回は 嵬燭箸蓮廚如⊆_鶚⊆殺について)。

・〔燭箸
             
「年たけて またこゆべしと思いきや 命なりけり、さよの中山」。これは西行が晩年に新年を迎えて詠んだ歌です。『命なりけり』とは、何歳になっても新しい年を迎えて心新たな心境を歌ったものなのでしょうか。

ギリシャの哲人が「すべてのものは、それらが生まれたそれらのもとへと、時の定めに従って滅し去る」と言ったそうですが、その根源から送り出され、やがてはその根源へと帰るのでしょうか。人は。どこから来て、どこへ行くというのでしょうか。そのことは、だれにも解らないのです。

賀川豊彦は著書の中で、生命は人間がつくることはできない、なにか神と通じるところがあると考えていたようです。人間が生命の創造なんかできるわけがない。もし、自然科学者が生命を合成したとしても、ほんとうはそれを作ったのは神であって、科学者はそれを媒介したのにすぎないと言っています。人間は生まれる場合、それは生命の誕生なのですが、少なくとも自分から生まれてくるのではないのです。直接には父母という関連から生まれるのですが、父母という単純なものではなく、子供が生まれない人もあるように、前もってなんの予定もありません。そういうことを考えれば、生命というものは、やはり神と結びついているのかもしれません。

・聖書は、人間に大切な霊的生命のことを述べています。生まれながら持っている身体的な生命とか、精神的な生命とか。これらは神から与えられたものなのですが、霊的生命とは違った生命でして、上から与えられた神からの生命なのです。ヨハネ福音書に人間は生まれながらの生命ではいけないと書いてあります。これはやがて人間は死んでしまう、〈この水を飲む者はまた渇く〉というのです。人が真に生きるということは、神の生命に人間があずかることなのでしょう。聖書では、このことを大切に述べています。ヨハネ福音書では、永遠の生命がどうして与えられるのかについて、神の子であるキリストがこの世に現れた、このキリストと接すること、キリストと生命的に結ばれることによって、永遠の命、神の生命にあずかることを聖書は教えているのでしょう。

・この世でいかに生きるかに大切なことは、人間がいかに生きていくのかということです。「その他の大勢」ではなく、いかに生きるか生命の支配者なる神に問い、真剣に考えることで、神のためにこの世でいかに生きるかが大切なことなのです。信仰者にとって、この世に生れてきたことは、神様から与えられた使命と結びつくものであり、この世における人間の存在にもなにか神のお召しを感じ、そこに責任を持つということなのでしょう。親鸞が、信の正しさは、臨終のときに、心が乱れず「めでたき」往生を遂げることによって、初めて証しせられるものでなく、日々日常生活のうちにこそ真実の信が成就され、証しされなければならないとする『平生業成』なのでしょうか。『命なりけり』と詠んだ西行の心境を察して、新年を迎えて、また、新たなる気分で過ごしてゆきたいと思っています。

・1月22日の日曜日は、連れ合いが岡山で開催の性差別問題全国集会に参加していましたので、一度船越から鶴巻に荷物を置き、早稲田教会で夜ありました聖餐を考える会(北村教師への免職処分に抗議し撤回を求める有志の会)に出席し、聖餐についての学びと私の裁判の現状報告を共有して、Kさんと新宿で会食し、鶴巻に帰りました。この週は他に集会は何も入っていませんでしたので、何時もよりのんびりと過ごせました。25日には渋谷のオーディトリウムに連れ合いと映画「“私”を生きる」を観にいきました。この映画についての私の感想はブログ(なんちゃって牧師の日記、1月26日掲載)にも書きましたが、右傾化する教育現場で“私”という身体から発する否を貫くことの厳しさと素晴らしさを、強く感じました。この映画に出てきます信仰上の理由で君が代伴奏を拒否したSさんはキリスト者で牧師の娘であり、牧師である彼女の祖父がいた教会の初代牧師が戦時下「天皇天皇とどちらが偉いか」という問いを突き付けられて、キリスト者としての答えを率直に述べたために拷問死した方がいらっしゃるそうです。胃からの出血が血柱になるほどの苦しみを経験されたそうですが、その話しぶりは淡々として静かで確信に溢れていました。Sさんの少数者の人権を訴える裁判の判決では、「多くの人が公の場では君が代の伴奏をしているのだから」という理由で訴えが退けられたというのです。これは教育現場だけではなく、まだまだ私たちの社会は個を大切にする成熟した社会に至っていないということなのでしょう。

・1月22日の説教は、マルコ福音書8章22-26節からメッセージを取り次ぎました。このマルコの個所は目の不自由な人がイエスによって目が見えるようになるという奇跡物語です。しかも極めてプリミティブな描写で貫かれています。目の見えない人が、イエスによって癒され「すべてのものがはっきりと見えるようになった」というのです。この物語の前には弟子の無理解の記事があり、その中でイエスは「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。…」と語ったとされています。晴眼者が目で見ている世界は、人間化された世界で、イエスからすれば歪んだ世界なのかも知れません。しかし全く目の見えなかった人がイエスによって癒されて見ることのできた世界は、神の与えてくれた世界そのものだったのかも知れません。「はっきり見える」というのは、この恵の世界に私たちが共に生かされてあるということが、「はっきり見える」ということではないでしょうか。目の見えない人の癒しにおけるように、イエスの恵みを受けるということは、この世界が神の恵みに満ち溢れていることを「はっきりと見える」ようになることなのです。