なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

Sさんからの応答(その2)

 Sさんからの応答

    その2、北村慈郎様

 神が用意した命の道について、パウロは「ローマの信徒への手紙」の5章に述べています。〈このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストのお蔭で、行の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています〉とあります。そして、人間の世界に死をもたらしたアダムについても述べているのです。「コリントの信徒への手紙機廚法◆匯爐一人の人によって来ただから、死者の復活も、一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです〉。

 律法がなかった時代にも、罪は存在していたけれど、律法がなければ、その悪い行為は罪とされることではないのです。にもかかわらず、モーゼを通して律法が人に与えられる以前であっても、アダムのような罪を犯さなかった人も死んでいるのですから、その死はアダムが持込んだ死だと言わざるをえないのでしょう。したがって、〈アダムによってすべての人が死ぬことになった〉ということがパウロの理論なのでしょう。

 アダムとイエス・キリストは、それぞれ彼らの後に続く人々に対する支配力を持っているのですが、彼らの与えるものはまったく異なっています。アダムがもたらしたものは死なのですが、イエス・キリストがもたらしたものは恵みの賜物で、それは命なのでした。

 パウロは「コリントの信徒への手紙機(15章)にある信仰告白には〈キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです〉とあります。

 イエスの死は復活と切り離しても、意味のある出来事と見られてまして、それが〈我々の罪のために〉と表現されています。イエスの死は〈我々の罪のため〉でした。人の罪がイエスを十字架につけたのでして、人の罪はイエスとともに十字架につけられたことになるのです。そして、イエスは新たに命へと復活することによって、人もまたイエスと共に復活の命に招かれたことになるのです。これが聖書の教える福音でありまして、福音とは確かに『人が神のために何をすべきかということについての知らせではなく、神が人のために何をしたかについての知らせ』なのでしょう。この福音を信じることが人々に救いをもたらすことになるのではないでしょうか。

 聖書の教えとは、「旧約聖書」から「新約聖書」にいたるまで、悠久の年月を経て命の尊さを脈々と語り継がれていることを言っているのでしょうか。いつの頃からか、「聖餐には洗礼を受けた信徒があずかる」という規則があるようなのですが、そのような条項に拘わるのはどうかと思っています。キリスト教の歴史をみましても、「原則を厳格に守らねばならない」という立場が、「原則を厳格に守らなくてもよい」という立場に変化しています。このような判断は、「キリスト教の指導者たち」が行っていたようです。「原則」なるものは存在しますが、その「原則」にどのように拘わるのかを決めているのは、「キリスト教の指導者たち」です。そして「原則」があっても、それに必ずしも見合わない状態でもよいことになるのでしょうから、「原則」よりも、「指導者たちによる指導」が優先するのではないでしょうか。

 縁がありまして数ヶ所の教会を巡り牧師からの話を伺いましたが、とても奇異に感じたことがあるのです。それは、プロテスタントとしての「日本キリスト教団」の方針に基づくものなのか、新約聖書の一部に偏り一時期の礼拝形式をとり入れ、説教が時代から乖離して難解なものになっているようです。それに、長老の方々の聖書の知識があまりにも軽薄で真理を取違えて解釈しているようなのです。表面的・形式的な由緒正しさによって正統であると安心している牧師、ある特定の文化的表現を普遍の真理のように崇めることが伝統的な教会だと思っている牧師。信徒の方は牧師に従順で、教会とはこんなものだと、何かを変えようとは思っていない人たちが多く見られます。キリスト教信者とは、神の御心を求めて、世の中を変えていくことを求めるものなのです。永遠に変えられない真理はありますが、変えるべく多くの事柄があるはずです。プロテスタント信仰とは、そのような変革を迫る面を強く持っているはずなのではないのでしょうか。

 〈東北の空に天使はうずくまる。「翼があっても奇蹟は起こらない」〉。これは先の震災で被害に遭われた高校生が詠んだ歌なのです。未曽有の災害を受け、苦しみ、悲しみに喘いでいる姿が目に浮かびます。神によって選ばれ、神との契約によってはじまったはずの、その神の〈沈黙〉は、被害を被ったこの高校生だけではないのです。あの大震災で多くの命を失った人々の悲しみや苦しみは誰もが認めているのです。だが、その沈黙をつづけたのは神ではなく、人間だったのではないでしょうか。そして、それでもなお、唯一の神の愛、神による救いを信じることができるものならば、何によってなのでしょうか。

 ナチズムの台頭に対して「世界教会運動」をすすめ活躍し、そのために獄死したD.ボンフェッファーは、「神は、われわれが神なしに生活を処理できる者として生きなければならないことを、われわれに知らせる。われわれと共にいる神とは、われわれを見捨てる神なのだ」と言われています。人間の宗教性において、困窮に陥ったときの「神だのみ」を、「機械ジカケの神」と指摘しているのです。また、「神という作業仮説なしにこの世に生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っている神なのだ」とも述べているのです。獄中にあって、死の恐怖に襲われていた神学者からしぼり出されたこの言葉を思い、わたしたち日本人は、神、仏を考えてみました。でも、日本人が神仏融合という融合思想を通して明らかにしてきた、その神、その仏とは、「作業仮説なしに、この世を生きるようにさせる神」であり、「仏」ではなかったのでしょうか。たしかに、わたくしたちは日常的に「機械仕掛けの神」「機械仕掛けの仏」を頼りにしてきたのです。しかしダルマ(真)の認識は本来、仏を自分の外部に設定しないものなのです。そして、神だのみ、仏だのみという信仰行為のなかにも、それが自利・他利を超えるものであるならば、それが(真)の道であると先人から教えられているのです。

 近代において、ハイディッガーは言葉によって存在者を通して語りえざる存在を仄かに示し、存在の恩寵を賛美することが、人間の使命となると言っています。それは、詩人として生きることが人間の生の意味なのかもしれません。

 キリスト教は、根源の一者、神との合一、神への帰還がわたくしたちの生への最終目標としているようです。この合一がキリスト教霊性なのでしょうか。新約聖書学者八木誠一氏は『イエスの生涯』から、この神との合一の構造を明らかにして、現代世界におけるその具体的様相を展開しています。それによれば、神の国とは、「神の支配するところ」「神の働きの及ぶところ」という意味なのでしょう。それは、イエス自身の言うような、空間的な場所ではなく、「こににある」「あそこにある」と指摘した場所ではなく、それは、〈汝らのうちにある〉(ルカ17:21)なのでしょう。さらにパウロが〈神は汝らの中に働いていて、汝らの意志をも働きをも成り立たせる。それが神の喜びである〉(フィリ2:13)と言われています。神はどこか遠くにいて、われわれを観察しているのではなく、われわれ自身の中にいるのであって、われわれの意志をも活動をも成り立たせています。ですから、神はわれわれの本当の自己なのです。それと、われわれの中ばかりではなく、万物の中で、万事を為しているのも神なのであるとパウロは言っているのです。それは、浄土教の『自然法璽』の思想と同じことなのでしょう。

 北村様は『・・・・キリスト教がイエスや聖書にこだわるのは、それを超えて帰って行くところがあるということ、イエスだったらどうするのかと立ち戻っていくところがある』と述べられていますが、これには同感します。

 哲学者の岩田靖夫氏は著書の中でこう述べています。「貧しい者は無力である。守るべく財産も才能も社会的地位もないから、裸の自己を露出して生きていくほかはない。他者の善意を頼りに生きていくほかはないだろう。そのとき、貧しい者は、容易に傷つけられ、場合によっては孤独死の中に突落とされてしまうかもしれないが、しかし、真の他者に出会うかもしれない。貧しい者にはそういう可能性がある。その他者もまた、裸の自己を露出して、まったく弱者となって、心を開いてくれるかもしれない。そのとき、愛の国、神の国、天の国が到来するのだ。こういう話は体裁がよすぎるとすれば、泥まみれの人間と泥まみれの人間とが本音で出会いうるかもしれない。そのとき、人と人との間には、愛の息吹が吹き上がるのである」と。

 北村様も、今後とも真摯な態度でもって宣教されることを願う次第です
                                   以上