なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(489)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(498)復刻版を掲載します。2009年2月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(489[-18]2009・2・1発行)復刻版


 見田宗介の『まなざしの地獄~尽きなく生きることの社会学~』を読みました。これは1973年の展望に書

かれたものの復刻です。扱っている内容は中卒の集団就職で東京に出てきた当時19歳だったN・Nの起こした

殺人事件です。見田は1960年代の高度経済成長から70年へと至る日本社会について、当時起きた連続射殺事

件を手がかりに、その事件を起こしたN・Nの実存分析を並行させながら分析しています。100頁ぐらいの短い

文章ですが、いろいろ考えさせられることが多くありました。まなざしの地獄という表題に示されています

ように、中卒の少年が大都会に出てきて、彼に注がれる周囲のまなざしによって彼の心がずたずたにされて

いくのです。そのN・Nは小さいときに母親から他の3人の子どもと共に置き去りにされた体験があります。置

き去りにされても、4人は死なないで生きのびていく訳ですが、貧しい東北の家庭に育った少年が、集団就職

に希望を託して東京に出てきたのですが、事毎に期待が裏切られて殺人事件を起こしてしまうわけです。こ

の本を読むと、そういう少年の生い立ちや東京での生活の中で、少年が殺人事件を起こしてしまうようにな

らざるを得ない社会の非人間的な力のようなものを強く感じます。決して少年の犯罪が許されてはなりませ

んが、少年の行動が何か闇のような力に動かされているように思えてなりませんでした。「人間の存在(ヴェ

ーゼン)とは、その現実にとりむすぶ社会的諸関係の総体(アンサンブル)に他ならないのであるから、その諸

関係の解体は、確実にその人間の存在そのものの解体をもたらす。」という見田のことばが心に突き刺さって

きました。社会的諸関係の総体としての人間存在において、その社会的な諸関係が一人の人間にとって「ま

なざしの地獄」ではなく、生きる勇気と希望を与える「まなざしの命」であれたら、どんなに素晴らしいこ

とでしょうか。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。神戸で性差別問題全国会議があり参加した。そ

こで教会が差別を生み出していることが語られた。教会では兄弟姉妹、神の家族というような聖家族を思わ

せるようなことが言われる。男と女が結婚し、子どもが与えられた一つの家族が祝福された家族である。一

人で生きている人は同じように祝福されているとは言われない。一人の女性牧師が認知症の母を引き取り、

牧会に携わっていた。娘と母の格闘している姿を教会の人が見て、励ましてくれたらと思うが、その女性の

牧師に信仰者としてのモデルでいて欲しいと言ったという。結婚をしたらしたで、妻の肉体上の理由で子ど

もをつくらないことにしているカップルがあり、その妻に妊娠しないの?と声をかける人があった。妊娠を

すると命があぶないからというと、お気の毒にねと言われた。離婚した人、マイノリティーの人も教会では

肩身が狭い。理想的なものでないものに対する排除や冷たさがある。そんな話が次々にでてきたので、中に

はこうしたものを変えるには教会解体をするという意見が出た。宗教的な幻想は取り除かなければならない。

聖書は絶対間違いない、神は絶対者であると言われる。しかし、聖書も読み直し、神もとらえ直す必要があ

るのではないか。教会が神のもとに集まっている人によって形成されているからと言って、清く正しいとは

限らない。現実を直視しないで、理想像だけが先になると、教会に傷ついて去っていく人も多い。今の教会

にいごこちがよい人、いごこちが悪い人があるだろう。それぞれを見直して、いろいろな人がいられる教会

にしなければならない。比較的当教会は変な宗教性がなく、居心地がよいのではないか。



(以下は、前回に2月1日の箇所を掲載しましたので、今回は1月25日の箇所を掲載します。)


          「許しを受け入れる」       1月25日

 許すことには二つの側面があります。許しを与えることと許しを受け入れることです。一見許すことのほ

うが難しそうです。なかなか他の人を許すことが出来ないのは私たち自身が許しを心から受け入れることが

出来ないからです。許しを受け入れた時にのみ、私たちは許すことが出来る内なる自由を見出すことが出来

ます。許しを受け入れることがそうしてそんなに難しいのでしょうか。「あなたの許しがないと、私はあな

たと私の間に起ったことに縛られたままです。あなただけが私を解き放つことができるのです」と告げるの

は非常に難しいことです。それは私たちがだれかを傷つけた、ということを告白するだけでなく、私たちが

他の人々に依存していることを認める謙虚さも必要とします。私たちは許しを受け入れることが出来る時に

のみ、許すことが出来ます。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)