なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(488)

 黙想と祈りの夕べ通信(488)復刻版を掲載します。2009年1月のものです。

 17日の日曜日午後から神奈川教区の「障がい者と教会交流会」に参加し、先ほど鶴巻にかえってきま

した。


        黙想と祈りの夕べ通信(488[-17]2009・1・25発行)復刻版


 新しい年になり、はじめてKホームの聖書を読む会にお話にいきました。毎年その年のはじめの会では、聖

書のお話を私がした後に、参加者から一年の抱負を伺うことにしています。強制的にではなく、パスも自由と

いうことで、一人一人に伺います。1、2の方がパスしますが、殆どの方が話してくださいます。今年は例年

より参加者が大分少なかったですが、その中の90歳の男性という方が、こんなお話をしてくれました。自分は

今生きていることが家族や他の人にも役立っているところがあるので、健康に留意して少しでも長生きしてい

きたいというのです。Kホームで生活せいている方々の中には、大分弱っておられる方もあり、また何時までも

長生きすることは家族にも負担ではないかという風に思っている方もあるかもしれませんので、私は、その方

のお話の後、少しコメントを加えました。人の役に立つあり方には二つあるのではないか。名古屋時代にホー

ムのベットで寝たきりのお年寄りの方が、訪問して来る人に、いつもにこやかに対応し、ありがとうとひと言

いうだけなのに、訪問者の方がその方から元気をもらうという話を聞いたことがありました。その話をし、周

りの人に何かをしてあげることができるという形での人の役に立つあり方だけではなく、弱くなって何も出来

なくなっても、その方を支えようとしてする方々との関わりの中で命の交歓は、その方と関わる人にも生きる

意味と希望を与えるものではないでしょうか。そういう意味では役立たないような人は、一方的な価値観の押

し付けでない限り、誰もいないと言えるでしょうか。

 上記の私の発言に続いて一人の方の発言がありました。今の話と同じだが、私が関係している重度の障がい

児の支援活動をしている会でも、カンファレンスで支援者の話を聞くと、自由に身動きが取れず、言葉も出な

い障がい児の存在がその子に関わる看護士、ヘルパーのような周りの人に命と勇気を与えている経験をしてい

ることが分かる。全く自分では言葉での意思表示できない重度の障がい児の場合、サチュレイションという器

具を着けていて、血液中の酸素量によって計数に変動が起きる、例えば折り紙の色の選択だけでも希望してい

ないものと大好きな色を取ってもらった時とそこに変化が見え意思がはっきり伝わる。厳しいお子さんの場合

は、呼吸機の管が寝返りなどで曲がってしまったりするとすぐ顔が青黒くなる。私が関わっている会は、そう

いうお子さんの支援活動をしているが、今まで大きな事故もなく活動が続いている。それぞれの支援者の報告

を聞くと、いろいろ工夫されていることが分かる。例えば、自閉の子の外出に同伴するヘルパー、重度の子を

看ているナースやヘルパーは、緊急の時には潜在的な能力が引き出されて、思わぬ力が出て、予測できない事

態に対応している。この前のハドソン川に着水したパイロットのように。助けようとする人がその障がいのあ

る子どもによって能力が引き出されていると私には見える。普段から勉強をしてあわてない心がけは必要だが、

関係の中で力が引き出されるものではないか。その関係性の中で子どもも成長していくように思う。相互関係

の大切さを思う。その相互関係が破れるときもあるが、出来ればお互い同士豊かな関係を築いていきたいと思

う。

 また別の方の発言がありました。今朝、アメリカの大統領の就任式をテレビで観て、何となくアメリカが変

わるという期待を感じた。今日は忙しく飛び回っていたので、早朝のテレビを観なければ、アメリカの大統領

の就任式を観る機会を逸したと思うので、よかった。自分の家には庭があって、そこに花を育てている。その

庭の花を無断で取っていく90歳の方がいる。注意したが、また花を取っていく。最近はそのおばあさんを無視

する気持ちが芽生えてきたが、今日のアメリカ大統領の就任式を見ていたら、改めて元気に暮らしていこうと

思った。 
 

              「弱さの中の連帯」      2月1日


喜びは思いやりの中に隠されています。英語の「思いやり」(コンパッション)という言葉は、もともと「共

に苦しむ」という意味です。他の人と共に苦しむということが喜びをもたらしてくれるとは、とても考えられ

ません。しかし、苦しんでいる人と一緒にいたり、失意の内にある人とただ共にいるだけで、あるいは困惑し、

不安定感を味わっている友人と時を共に過ごすことで、私たちは深い喜びを味わうようになるでしょう。それ

は幸せや興奮、大きな満足ではありません。それは他の人のためにいる、人類という家族の中で兄弟姉妹と共

に連帯して生きるという、を味わっている


                        (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)